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Yahagikyo
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1985/06/19
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anorexianervosa__
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31 2017 / 03
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監督
マイケル・アリアス


クロ・イタチ:二宮和也(嵐)
シロ:蒼井優
木村:伊勢谷友介
沢田:宮藤官九郎
ネズミ(鈴木):田中泯







鈴木さんのキャラ良いわ。

そういえばアニメ映画についてまともに書くのは初めてになるのか。
映像表現としてのアニメーションについて感じるところも色々書きたいが、手塚とかウォルトディズニーについて書いてるうちにフロイトや神道にまで及びそうなので、またの機会でいいや。


大分前にTVで、この作品のCFを観た。”世界に誇る日本アニメがなんたらかんたら”っていうキャッチコピーの。そういうのが流行ってた頃だ、しかし。実際に鑑賞しに行って10分と経たないうちに思った。おいおい、とつぶやきそうになった。口だけはその通りに動いてたんじゃないか。

思ったのだ。

これは……ウケ悪いだろうなあ…

と。

この世界観で任侠劇っておいおいおい。

鉄パイプで殴り合いかよ。(実は違ったけど)ヤクザの抗争話かよ。

アニメで。

キモカワ系の絵柄で。


もう、なんていうか、事前に情報を仕入れずただの娯楽映画だと思って観にいった自分としては、気まずいというか、それもあったけれど、至大に別の疑問が脳を支配し始めた。つまり、この監督は一体どんな客層を想定してコレを映画化しようと思ったのか。わけわからん、と。

まずファミリー層には無理。絶対無理。血とかバンバン飛び交ってるし。

カップルにも無理……かどうかはそれこそ人によるが、気まずくなるのが普通じゃないか。

任侠劇が好きな人はそもそもアニメ映画観に来ないだろう。

普段アニメばっか観てる人はまずもってヤクザのシマ争いとか拒否反応だろう。


ただ、まあ、そんな野暮な事は気にせず自分が楽しめばよかっただけなんですがね。
ジャンルや媒体の壁を壊す、とか、乗り越える、みたいな文化のボーダーレス化、インターナショナリズムは、つまり「このジャンルのコレをこっちのカテゴリーにツギハギしてみた!」ってのは、それ自体が時としてセールスポイントになったり観客にインパクトを与える手段ではあるのだけど、それだけ、それがウリです、という事になると結局一発ネタでしかないし、実は少しも新しくないと思うんだ。古くは19世紀末のヨーロッパ、主にフランスで、世界の美術から学ぼうという運動の中から生まれたジャポニズムやシノワズリーとか、ブラックアフリカに影響されたピカソのキュビズムとか有名だし、最近だとネタに詰まったハリウッドが日本や韓国のヒット作をリメイクしたり。文化芸術的な媒体が過度に様式化して行き詰ったとき、必然的に新しいものを求めて足掻きながら、その様式の外側に別のエッセンスを求める事はしょっちゅうだ。アニメって行き詰ってんのかな、そうは見えないんだが。

そしてまた逸れている、話が逸れている。古くは~のあたりからか。



早い話が、アニメで任侠劇をやる必然性って何だ?って事だけど、実はコレ、その必然性をすごく感じられる作品だった。ナチュラルに、全然アリだな、と。


タランティーノのKillBill観れば(問答無用で)分かるけど、アニメーションで表現される暴力は、実写よりもずっと鮮烈で攻撃的になり得る。この泥臭さ、胡散臭さ、湿りきった空気は。ある意味リアルな「無垢」を本当に生々しく描いてしまったシロというキャラクターの造型は。「オトコの生き様」みたいなものをここまでガッツリ主張してしまう脚本は。考えれば考えるほど、この最先端なデザインセンスと噛み合わないはずなんだけど。
誰がどう見ても宝町のモデルである「大阪」っぽいイメージの洪水がそれを可能にしてしまうのか。「千と千尋の神隠し」あたりにも通じる、アジアなイメージを増幅させるためのガジェットや建築物のデザインのこの量的な「過剰さ」は、流行ってるよね。ていうか、流行っているのはアジアじゃなくてデザインの「過剰さ」だと思うけど。

2時間半の映像に詰め込めるだけの「デザイン」を詰め込みました、というのは、ハリウッド製の半CGアニメ(つまりSWとかMATRIXとかLOTRとか)でもそうだけど、ストーリーや演技を観るうえでは「ノイズ」と化しているだけで、それら「デザイン」に気をとられると猛スピードで美術館を駆け回ってるような滑稽な感じがするんだけど、個人的には。

映画にかけられる制作費が、動員数と興行収入が、映像制作の効率性が、120~180分という上映時間で消化されうる限界を、とっくの昔に上回ってるんだろうな、と思うと、途端に作品からカネの匂いがぷんと漂ってきますよね。俺だけか?

ともあれ、この作品は、そんなある意味最先端の映像を媒介として、古い任侠映画のエッセンスを再帰的に表現しているのが面白かった。あまりにあからさまなガイジンコンプレックスはどうなのかとも思うけど。
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26 2008 / 04

シムシティにハマっていました。
しかもDS版の一作目です。
人口50万人行ったよ、と言っみたところで、それが一体どの程度大変なのか誰も知らんのでしょうが。

こんなものも作っていたりした。walp.jpg








自作の壁紙です、一応。
CGなんて今やあらゆる映像媒体で見慣れた時代にあって、しかし、自分でモデリングして配置してライティングやカメラワークを設定して……レンダリングされ表示されたこれを見て、思わずこう、ため息が漏れると言うか、ホレボレしてしまう。

上記のようなちょっと90年代のNHK教育に出てきそうなシンプルな3DCGが、ネットとパソコンさえあれば、さらに操作さえ覚えてしまえば、ものの30分で作れてしまうのが現代です。それもこれも、Blenderという、元々は営利目的で開発されていたツールが、紆余曲折あってフリーウェアとして、しかもオープンソースで配布されているからで。それ以外にも色々とフリーソフトのモデリングツールは存在するのだけれど、自由度と精度に関しては業務用ソフト並みの性能を持っているらしいです、コレ。

すごく木材っぽいだろう、どうだ。

……しかし当たり前である、実際に木材の写真を貼り付けているのだから。
数年前から「最近のCGはリアルになったね」という言葉をよく耳にするが、それも当たり前で、現物の写真をテクスチャとしてペタッとやっただけだったりしたからね。

それでもやっぱり、美しいんだ。この無機的な質感がなんとも。テカりかたとか。
日本の場合は主に非常にオタッキーな理由でモデラーが増えているらしいが。俺はわざわざ人間をモデリングしようなんて気は起きませんのでこういう、作業量の少ない無機物っぽい感じのCG映像を製作中です。Blenderには物理エンジンも搭載されているので、重力効果や摩擦力を上げたり下げたりしながら、上映会には当然間に合いませんでした。木材は有機物です。

大学が始まったのだが別にいつも通りで特筆すべき事もなかったりとか。兄妹3人が全員私大生になったんでバイトでも始めて仕送り減らしてもらおうかと思案してみたりとか。
本も映画も音楽も手当たり次第手をつけてはみるものの、それらに対する感情、思考を文章化しようとすると結構労力を使ううえに、大概納得のいかない形にまとまってしまったりとか。
時間さえあれば全部ココに書き留めておきたいのだが。

マリオカートWiiにもハマっていたりとか。
CMのあのコントローラーは、一人でやるぶんには楽しいけど、対戦ではまずGCコンの相手になりません。そんなバランスで付属してよかったのか。
10 2008 / 04

携帯からだと文字数制限にひっかかる。
ので結局それほど更新頻度は上がっていないんですが。

前々から書こうと思っていたものを、不器用にも、あえて綺麗にまとめずに、
書きたいだけ書きました。


jacket.jpg
title:神曲
artist:あさき
 label:konami







凄過ぎる。
何がって、人が歌っているのをただ聴いているだけでも、「ちょっと普通じゃねーな」と、先ず暗がりの中で画面に表示される歌詞に圧倒されるし。

カラオケで、よく音ゲー好きの友人が歌っていたアーティスト。
コナミからCDが出ていて、一般店舗での販売はされていないそうです。

この人、知らなかったのは、悔しいなあ。
音ゲーを全然やらなかったのが悔やまれる。
基本的にヘタだからなんだけど。

多用されるやまとことばに当て字される漢字の山、というのは椎名林檎っぽい。
「Dir en grayプラス四人囃子だなあ」と、自分勝手に説明するならばそんな音楽性で、ちゃんと聴けば殆どの曲はABメロの後にサビがくる、というJ-popの基本構造に忠実なんだけど。

でもまあ、それとは別の文脈で美しいんです。
音楽としてのポップな「楽しさ」も鏤められていることにはいるんだけど、「ノリ」が全然無い。
音ゲー用の曲だったことが関係しているんだろうけど、これは、新しいよ、全然。全然ノれない(アップテンポの)音楽なんて。自分の耳は「ちょっとプログレっぽいかな」と反応してしまったが、そういうノリの無さともまた大分違うもので。

キメラ的に異なる音楽が繋ぎ合わされるのがプログレならば、あさきの場合、「咲いては散ってゆく」感じなんだと思った。
少しづつ異なる様々な、小花のようなフレーズが、盛り上がって、ブレイクしかけては、次へとバトンを渡せぬまま、霧散してはまた消えていく、そんな儚さが、独特の歌詞と相俟って。

それを「日本的」と表現してしまうと絶対語弊が生まれると思うのだけど。
「日本的」以外にどう言い繕えばいいものだろうか。

日本的というか日本人的な、繊細で、それゆえに抑圧されてしまうとすぐドロドロしがちな、複雑な感情の海とか、武家社会の鉄の掟の下に積もっているもの、村社会的な和の代償にされるものとか、そういう「本当は怖い日本昔話」な。桜の木の下の死体とか、そういうベタな話にも共有され、含まれている、社会の秩序の中で儚く散っていく人とか、人一人の中の隠された強い激情だとか、あえて語ろうとするとすごく安っぽくなってしまう、わけわからんもの。ジャパニーズGOTHIC?とかそういう感じの。

そういうダークな日本っぽさを、これを書いている俺自身は多分殆ど持っていませんが。
でも分かるんだ、やっぱり。

こんな激しいハードな曲なのに、’せつなさ’を見出してしまう。

この子の七つのお祝いに-YOUTUBE


春にしては冷たすぎる雨風で、桜がほとんど散っちゃったなあ。
春以外はどちらかというとパッとしない、黒々とした地味な樹だよね、桜って。

ソメイヨシノの名付け親は、藤野キメイさんという明治時代の植物学者らしい。
アパートのベランダから枝と葉ばかりになった樹を眺めていて、その人が自分の母方のご先祖だという話を、なぜか思い出した。
とりあえず、鑑賞したり読んだりした「本」「映画」「音楽」は、極力それについて書いてみようと思います。

51fvaI3hDDL._SL500_AA240_.jpg善き人のためのソナタ
原題:Das Leben der Anderen
出演:ウルリッヒ・ミューエ
マルティナ・ゲデック
セバスチャン・コッホ
ウルリッヒ・トゥクル





米アカデミー賞の外国語映画賞の受賞で話題になった映画を(レンタルですら)大分遅れて観た。
この作品のCFを昔見て、設定やなんかに興味を引かれはしたんだけど、

「それを本気で聴いたものは、悪人にはなれない」

とか、そんな感じのコピーが出てきたので観る気をなくしてそのままだったんです。なんだよ「悪人にはなれない」って。でもこの言葉、レーニンが言ったものを引用しただけだったらしい。

ドイツ映画はシックな、というか、すごくいい意味で「型にはまった」美意識のもとにデザインされたような、落ち着いた、落ちすぎて地の底に着いてしまった感じの色使いが良い。ドイツ人って、普通は滅多に中間色をデザインに使いたがらないらしいね。伝聞ですが。
女優が脱いでても全然エロくない。それもまた現代ドイツ映画の特徴なんだろうか。

この作品は、多分観る人によっては、取り分けハリウッド的勧善懲悪劇に慣れちゃった人には、東独の政治体制を批判した西側万歳映画で、主人公(ヒーロー)はドライマンで、クリスタは悲劇のヒロインで、尊い(ネタバレ)なんだろうが。
そういう自国の体制を礼賛したイデオロジスティックな映画って、つまりアメリカマンセー映画の原点って、ナチス時代のプロパガンダ映画がそれに当たるとも言われているんです。関係性を破る物語にカタルシス的演出を付与した(ちょっと前までの)ハリウッド的物語のルーツはナチスの映画だ、と。そういう受容のされかたによって、アメリカでアカデミー賞を受賞したんだとすれば、それはそれで滑稽な気もするけど、考えすぎか。

でもまあ、世界最古の映画史を持つ国の一つであるドイツにとって、ナチス的なプロパガンダムービーは70年前に通った道のはずなんで、政治的な視点を入れずに観ようと極力つとめていました。というか、舞台設定を現代に置き換えても大筋の物語はやれそうな気がするんだけど……通信傍受法とか。エシュロンとか。

以下ネタバレ
先日卒業式があって、一つ上の学年の方々がみなぞろ卒業していかれました。

昔の自分だったらば、恐らく始終「だからナニ?」という態度を取る事だろう。

それは薄情さとかではなく。

「知り合ったのが学校制度の中だったとしても、交友関係までそれに依存しているわけじゃない」

という、あくまで軽薄ではあるけれども、一種の信頼表現だったように思う。

先日の卒業式、追い出しコンパも、「そうですね卒業ですねおめでとうございます」という程度の軽い気の持ち方で顔を出した。

そして今日に至るのだが、正直言って、今更こんなに動揺するとは思わなかった。

昨日も今日も、古い知り合いにいきなり電話したりとか、行動や言動が明らかにおかしかった。

感情を掻き乱されてしまっている。

まさか自分のような奴が、という。

今更気付かされたけれど、やはり、どこかで寄りかかっていたのかもしれない、学校制度やサークルという、「ワク」に。

冷水を浴びせられて叩き起こされたような、妙な気分だ。

多少の時間がたてば、まあケロッとしているとは、思うけれど。
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先日逝去された、サー・アーサーチャールズ・クラークを追悼するつもりで。


この本はつい最近読んだけどね。






「観測する事で世界が決定される」
そんな感じのセリフが、ちょっと濃い目のサイエンス・フィクションにはちょくちょく登場するのですが。
映画だと「バタフライ・エフェクト」とか(これはライトなSFだけど)、小林泰三「酔歩する男」とか、グレッグ・イーガン「順列都市」とか。
天才てれびくんのバーチャル三部作とか。
……例えがマイナーすぎると思うけど。

こういう設定って、実際に唱えられてる学術理論がベースになっていて、量子力学における不確定性原理の「観測問題」と呼ばれるパラドックスから導き出された「多世界解釈」とか「人間原理宇宙論」とか言ったと思う。たしか。
「知性が現実を決定している」というのは哲学の歴史におけるカント(3/27追記:カントじゃねい。デカルトだった。もっと勉強して個々の知識に互換性を持たせようぜ俺、人名間違えてたら洒落にならん)のコギト・エルゴ・スムと、それに対する反応に似ていて面白い。

んで、多分、自分が知っている限りでは、本作「幼年期の終り」がひょっとしたらそれら認識論系SFのはしりじゃないかと思うんですが。
ただ、そういう種類の学術的な背景じゃなくて、、サイコキネシスとかテレパシーとか、あくまで「オカルト」として登場するんだけど。

仏教思想に影響されていた作家らしいけど、そういえば「唯識論」なんてのがありましたね。

自分はこの人の著作のうちの半分も読んだ事ないけれども、クラーク作品っていつも「人類」という総体を扱いながら、どこか圧倒的な、宇宙的なともいえるような冷徹さを感じさせて、常に「人間」が疎外されている気がするんだよね。それはキューブリック版「2001:A SPACE ODESSAY」のゾクゾクするような映像の美しさからも感じ取れる、どこか「イキモノ」としての人間の側面が否定されて、どんどん概念化、イデア化していく「ヒト」を描いている、そういう思想が根底にあるんでしょうか。

この作品にもそれはあって。若干ネタバレになりますが、なんつーか、この終わり方を「ハッピーエンド」と捕らえられる人がもし居たら、相当イッちゃってる人のような気がするなあ。

「科学の進歩は人類の進歩だ」

とは、今や一概に言えない時代になったし、そもそも「人類」なんて言葉を日常で使うと失笑を買う。
そんな現代は、ぶっちゃけいい時代だと思う。
多様性や差異を許容できない、あるいは「乗り越えよう」とか言っちゃう、「多様性フォビア」の人はどうぞ一読してみてください。

「進歩」の解釈はいくらでもある事、「進歩」が無条件に「善」であるとは言えないだろう、と。
地味な解釈ではあるけれども、冷戦時代らしい、かなり切羽詰った思想の込められている作品じゃないかな。マルキシズムが引き金としたスターリニズムとか、その対極のようなグローバリゼーションによる資本の寡占化とか、地球市民思想とか、トランスパーソナルなんたらだとか、たとえばそういう思想を突き詰めて推し進めて行ったら、どんなグロテスクな世界が待ち受けているかを、見事に描ききっているんじゃないでしょうか。




というのは、多分深読みしすぎです。

単純に、アイロニカルなSFとして物凄く面白い。
星新一のショートショートのように、あらすじだけでも十分読み手を作品世界に引き入れるポテンシャルを秘めてました。

クラークは、SFがまだ文学的な力を持っていた時代の作家であり、同時に「思想家」だったようで。
この人が亡くなったことが、ハードな意味でのSFの死に繋がらなければいいんですが、日本じゃあもう最近は、「対人類用有機ヒューマノイドインターフェイス」とかいって美少女の萌えキャラに属性つけるためのアクセサリーに成り下がったそうです、SF。いやまあ、いろんな作品があっていいとは思うんだけど。

一時代を飾った作家に、極東の島国の学生が黙祷。
彼の死についてのNASAの人のコメントが素晴らしかったし、泣けた。
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