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恒例かどうか知らないが半端に遅くてややひねた時事ネタ。春樹は別にそんな好きでもないし、むしろ春樹ストのあまりの多さがちょっと嫌だったりとかするのだが、本作の紹介にこれ以上のタイミングはねぇなと思いつつ。

51SG02MCW0L._SS500_.jpg










1,“戦争は平和である”

その通り。
どこぞの漫画化が「平和の対義語は戦争じゃなくて混沌だ!」と言っていたが、秩序を絶対視すればするほど、そこから零れ落ちるもの、一つの秩序の及ぶ空間的半径からはみ出した、つまりは異人種異民族との軋轢は回避不能なのだともいえる。ドグマやコードに由った中世・近世までの国家に必ずしも戦争は必要なかったが、ある意味で情報の性質が均一化した現代世界の、国境線によって形成される国家というものは外界との差異化による秩序形成を行っているわけで。民主主義国家にしてみれば独裁国家が、独裁国家にしてみれば自由主義諸国が、それぞれ相手を無秩序や抑圧体制と見なす。「悪の枢軸」を平和な国にするために攻め入り、「国家の分裂を抑止」するためにミサイルで脅す。平和主義を歌う国は他国に攻め込まれないため経済大国であり続けようとし、人々に金持ちを目指せと呼びかけ、考える余裕すら持てないほど彼等の時間を絞り上げる。また別の国はそんな人々の不満を逸らすため隣国への敵愾心を煽る。戦争が平和を作るのだ。

2,“自由は屈従である”

その通り。
自由の刑という名言もあるが、一体、本当に何物にも束縛されない人などかつていただろうか。生物学的にも人間は単独ではけして生きられないからこそ、自由主義は抗いがたい社会の構造を常に抑制するための方便として必要とされるのだろうが、その結果が抑制の利かなくなった欲望の暴走だ。どれだけ尊厳とか尊さを説いてみたところで、人は人である前に動物であり、一番短絡的な部分を小突きまくって開放させてやれば、恐ろしいほど従順であり続ける。ポルノや売春なんかはひょっとしたら狭義のセックス産業でしかなく、その裏返しとして現実の世界で色恋沙汰や同性同士の性的競走、ステータス争いを煽り続けるビジネスの形態こそ、あるいは広義のセックス産業とも呼べるのではないか。大半の人間は考える事に不安を覚えざるを得ない以上、思考を停止させてくれる娯楽にしがみつき、権力者があっさりとコントロールできるような短絡的で刹那的快楽を貪るだけ。だとするならば、結局自由の価値とはその程度のもの、欲望や不安から自由になれない大衆があっさりと自由からの逃避を行い何かにしがみつき、それとは知らずに屈服するためのプロセスでしかない。自由とは屈従なのだ、だから「働いたら負け」などと言って国に寄生するだけの人間はクズであり、企業や国家のため人生に占める約80年の時間的リソースを切り売りし捧げられる人間であればあるほど社会的正義にかなった善良な市民なのである。

3,“無知は力である”

全く持ってその通り。
「役に立つって、本当はどういうこと?」などと寝ぼけた禅問答を行う文系連中こそが役立たずであり、知識とは自然科学とその応用技術だけをそう呼べばいいのである。科学技術が与えてくれるものをひたすら享受すれば、あとは何一つ知識など必要ない、全くの無駄、無駄どころか、余計でわずらわしいだけだ。鈍感力は素晴らしく、他者を意に介さない事で我々を力強い存在に造り替えてくれる。余計な知力を捨てれば捨てるほど、堂々とすばやく、そして力強い行動が可能であり、それを実践すればするほど勝ち組に近づく。何事も本質などについて考えたり知ったりするのは時間の無駄であり、社会をスピーディに回転させるため、ある意味では知っているふりが可能ならそれで事足りるのである。本質や現実を乗り越えて行動したものがより思い通りの人生を送り、勝ち組に入れるのだから、考えるのをやめて常に力強く行動を続けるべきなのだ。絶対に信頼の置けるものなどありはしないし、そもそもそんな事誰も気にしない。思考を切り捨てた力強い行動だけが結果を得る。事実に近いか否かよりも、より大きな声をあげる者の言葉が聞き入れられるのであり、相手を理解するよりも相手を無理やりに楽しませ、従順にする事のほうが完全なのだ。無知は力であり、言い換えるなら無知への志向があらゆる力の源泉なのだ。


……えーと。
長文になりましたが、呼んでいただけた方、驚かせてしまったらごめんなさい。別にこれを書いた自分がそう思っているわけではありませんので、念のため。

結構強烈な事が書いてあるはずだけれど、上の文章は一体、何なのか。
まず3つの主題、

戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である

これはジョージ・オーウェルが1949年発表したディストピアSF『1984』(邦題:一九八四年)の舞台、オセアニア国の掲げるスローガンだ。

が、その下の内容解説は完全に自分のオリジナルのもので、しかもこの作品と絡めて述べたものではない。現実の、今ある世界を鑑みて書いてみたのだ。いわばSF世界とリアル世界のハイブリッドなイデオロギーが上の文章ということになる。

ディストピアとはユートピアの対義語で、つまりトマス・モアが夢想したあるべき世界と対照を成す、“あってはならない未来”を描いたSF作品がそう総称されている。オーウェルが本作を書いたのは60年以上も昔で、しかも作品の舞台となった1984年はとっくの昔に過ぎ去ってしまい、しかもこの作品に登場するような恐るべき全体主義の未来など訪れはしなかったように見える。では、こんなもの読み返す必要はないか?
自分にとっては当たり前のことなんだけど、あえて言うなら「SFに描かれた世界がそのまま実現するなんてありえない」。

それもそのはず、一度描かれてしまえばその世界観はすでに読者の頭の中でひとつの現実となり、その瞬間からもう過去のものとして作品が捕らえられる事、たとえSFでも、それに変わりはない。しかしだからこそ、ディストピアSFは、そこに描かれる未来を抑止する側面も持つのだ。

村上春樹が今この作品を引用する意図はまだよく分からないものの。

24年間生きてきた中で自分が現実の社会から受け取った悪意あるメッセージの数々が、本作に描かれるスローガンとあまりに類似しているようにも、時々ではあるが思えたため、ちょっと書いてみましたとさ。


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俺、テレビって嫌いでした。
ていうか今もあまり好きにはなれません。
「好きな番組」はあれども、“テレビ”という語に集約される諸々の構造とシステムが好きにはなれなかった。それは一体“何故”だったのか、嫌悪にまつわる根源の理由そのものが、本書を読み通すことで氷解しつつあるような気がします。まあ本当は大学に入ってから漠然と判りつつもあったのだけれど、此処まで緻密に、それを文章化してくれた本に出会えるとは思わなかった。

故に4回ぐらい読み返してしまった。
31co7k-KMuL._SS500_.jpg


テレビジョン・クライシス―視聴率・デジタル化・公共圏
/水島久光

せりか書房








というか、自分の意見、本についてではなく本の中で分析されているシステム論や近代論についての、自分の意見を交えずに書くのは不可能っぽい。
ほとんど自分の意見です。

・・・実はこの記事、載せるべきか否かかなり迷ったんだけれども。
前回の更新から予告どおりにほぼ一月経過しちゃったし載せることにした。

最近変な夢ばかり見る。
そしてまたネット繋がらなくなりました…


41KE8QWCHML._SS500_.jpg北田暁大(著)

NHKブックス





もしくは「ワラwう日本のナショナリズム」。

微妙に古い言い回しだと「藁う日本の~」となる。

いつの間にやら、2ちゃんねるでもない場所で、それどころか日常的なメールの文章においてすら頻繁に“w”が使われるようになっていて、自分自身では殆ど使わなかったけれども、(笑)→(ワラ)(藁)→(warota)(ワロス)とかそういう変遷を横目に見知ってきてしまった自分としては、それらを差し置いて“w”が結局世間一般に浸透するようになったのはなぜだろう、と時々思っていた。りした。

そのぶっちゃけどうでもいい疑問が、本書を読了する事で、決着いたしました。
“アイロニーを含むから”ではないだろうか。

つまり、「笑い」より「嗤い」に近いんだろうな、と。
たったの一文字で皮肉の感情を喚起して、そのパワーで読み手の笑いの感覚をくすぐるんじゃねーのかな、と思った。
Systemofwaros1.jpg

(あやしい図にしてみた










でも、今のローティーンあたりの人にとってはひょっとしたらそんな感覚ははじめから無いかもね。以下が本文なんだけどね。

で、この“アイロニー”、“皮肉”と“反省”をキーワード、主軸として据えながら、戦後史における文化思想を60年代から00年代まで読み解いてみる、という、そんな独創的視点で書かれたのがこの本です。

なにしろ安保闘争から糸井重里から2ちゃんねるにいたるまで、赤軍連合から田中康夫からナンシー関からピンクレディー、果ては「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に至るまで、例外なくすべて“アイロニー”というモノサシで計ってみせるのがすごい。その説得力がまた凄い。しかも、そのモノサシである、“抵抗”“アイロニー”“パロディ”の、それ自体の構造の解体・分析を同時に展開していく過程がまた面白いんです。ヘーゲル―コジューヴの言うところの(フランシス・フクヤマのアレとはまた微妙に違う意味での)人間が所与の環境への否定(的な対象化)を止める“歴史の終り”という概念が、ポストモダンの“ポスト”がいつまで経っても外れない理由なんだろうか。


単純化してしまうと、60年代安保闘争のなかで繰り広げられた“正しさゲーム”に、そこから“降りる”こと、あえて反抗しない事で逆説的に抵抗したのが70年代の消費社会的コピーライター、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」においてはその抵抗の姿勢すら抹消記号を引かれて消去され、その後高度に発達した広告メディアの支配力そのものを“テレビの裏側を見せるテレビ”“メディアの影響力をおもちゃにするメディア”として、自己言及的に皮肉ってみせたのが80年代のテレビ文化、そうして次第に内輪化してゆくマスメディアに対して、あくまでこれも“ネタ”として面白おかしく叩き台に上げ、皮肉ってみせるのがインターネット上に散見される“マスコミ叩き”なんだそうな。


『ナチズムとシニシズムの共犯性を剔出したペーター・スローターダイクが指摘するように、アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰される。掛金は、反左派的な本音などではなく、―左派/右派の彼岸にある、(とかれらが考える)―ロマン的対象なのである』―P.211より抜粋

上記の抜粋は著者の2ちゃんねる評なんだけど、つまるところ、2ちゃんねるやそれにかぶれた世間の人々は、一般に言われているように右傾化しているというよりも、ロマンチストになりつつある、しかも“シニカルなロマンチスト”、というかロマン主義的なシニシズムに浸っている、らしい。はっとさせられるものがあった。

それが正しいかどうかはともかく、現代社会を眺めるための新鮮な視点と驚きを提供してくれた著作だったのだけれども、『社会に対して処方箋を提供する側にあるはずの“思想”は、歴史なき時代において常にスノビズムに敗北する運命にあるのだろうか』という趣旨の言葉で締めくくられている。なんというか、自分も含めて、内面に「お勉強モード」「お利口さんモード」を抱えている、ある種の人々は、学歴とかと無関係にこういう諦念を感じた事があるんじゃなかろうか。それで「お勉強なんてやってられるかよ」的に、「書を捨てて街へ繰り出し」ちゃった人も一杯居るんではなかろうか。

最近すごく「お勉強モード」な自分としては、その「お勉強モード」である理由について、思う。

「好きだから」でしかないんだわ、やっぱり。

現代の若者として、この北田さんの言う“シニカルなロマンチスト”の1人として言えば、情報の氾濫する時代で、「思想」と呼ばれる言葉を紐解くためにアタマを使う事、が、結局一番大きな“愉しみ”の一つだからだ。誤解を恐れず言えば“趣味”の範疇に近い意味で、自分にとって数あるロマンチシズムの対象の一つが“思想”なんだ。嗜好が徹底的に細分化してゆく時代にあって、やっぱり変人なのかもしれないが、社会学や哲学のテクニカルタームが踊っているページに心躍らす奴なのだ。

これに気がつけたのは良かった。いや、どこかで薄々感づいていたことをきちんと文章化できたのが良かった。ともすれば「お利口さん」を排除したがる90年代後半の社会の空気を鋭敏すぎるほど感じ取って、必要以上に「バカっぽい」振る舞いを繰り返してきた(ある意味本当のバカな)奴としては、その反動でペダンティズムに陥ることが一番怖かったので。でもまあ、外来語だけど、ペダンティックという言葉がもうすでにPedantic、っていう状況はどうなの、とも思うけれど。

学問に対してアイロニカルに振舞いすぎて、結局学問に着地してしまう、という、皮肉。

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先日逝去された、サー・アーサーチャールズ・クラークを追悼するつもりで。


この本はつい最近読んだけどね。






「観測する事で世界が決定される」
そんな感じのセリフが、ちょっと濃い目のサイエンス・フィクションにはちょくちょく登場するのですが。
映画だと「バタフライ・エフェクト」とか(これはライトなSFだけど)、小林泰三「酔歩する男」とか、グレッグ・イーガン「順列都市」とか。
天才てれびくんのバーチャル三部作とか。
……例えがマイナーすぎると思うけど。

こういう設定って、実際に唱えられてる学術理論がベースになっていて、量子力学における不確定性原理の「観測問題」と呼ばれるパラドックスから導き出された「多世界解釈」とか「人間原理宇宙論」とか言ったと思う。たしか。
「知性が現実を決定している」というのは哲学の歴史におけるカント(3/27追記:カントじゃねい。デカルトだった。もっと勉強して個々の知識に互換性を持たせようぜ俺、人名間違えてたら洒落にならん)のコギト・エルゴ・スムと、それに対する反応に似ていて面白い。

んで、多分、自分が知っている限りでは、本作「幼年期の終り」がひょっとしたらそれら認識論系SFのはしりじゃないかと思うんですが。
ただ、そういう種類の学術的な背景じゃなくて、、サイコキネシスとかテレパシーとか、あくまで「オカルト」として登場するんだけど。

仏教思想に影響されていた作家らしいけど、そういえば「唯識論」なんてのがありましたね。

自分はこの人の著作のうちの半分も読んだ事ないけれども、クラーク作品っていつも「人類」という総体を扱いながら、どこか圧倒的な、宇宙的なともいえるような冷徹さを感じさせて、常に「人間」が疎外されている気がするんだよね。それはキューブリック版「2001:A SPACE ODESSAY」のゾクゾクするような映像の美しさからも感じ取れる、どこか「イキモノ」としての人間の側面が否定されて、どんどん概念化、イデア化していく「ヒト」を描いている、そういう思想が根底にあるんでしょうか。

この作品にもそれはあって。若干ネタバレになりますが、なんつーか、この終わり方を「ハッピーエンド」と捕らえられる人がもし居たら、相当イッちゃってる人のような気がするなあ。

「科学の進歩は人類の進歩だ」

とは、今や一概に言えない時代になったし、そもそも「人類」なんて言葉を日常で使うと失笑を買う。
そんな現代は、ぶっちゃけいい時代だと思う。
多様性や差異を許容できない、あるいは「乗り越えよう」とか言っちゃう、「多様性フォビア」の人はどうぞ一読してみてください。

「進歩」の解釈はいくらでもある事、「進歩」が無条件に「善」であるとは言えないだろう、と。
地味な解釈ではあるけれども、冷戦時代らしい、かなり切羽詰った思想の込められている作品じゃないかな。マルキシズムが引き金としたスターリニズムとか、その対極のようなグローバリゼーションによる資本の寡占化とか、地球市民思想とか、トランスパーソナルなんたらだとか、たとえばそういう思想を突き詰めて推し進めて行ったら、どんなグロテスクな世界が待ち受けているかを、見事に描ききっているんじゃないでしょうか。




というのは、多分深読みしすぎです。

単純に、アイロニカルなSFとして物凄く面白い。
星新一のショートショートのように、あらすじだけでも十分読み手を作品世界に引き入れるポテンシャルを秘めてました。

クラークは、SFがまだ文学的な力を持っていた時代の作家であり、同時に「思想家」だったようで。
この人が亡くなったことが、ハードな意味でのSFの死に繋がらなければいいんですが、日本じゃあもう最近は、「対人類用有機ヒューマノイドインターフェイス」とかいって美少女の萌えキャラに属性つけるためのアクセサリーに成り下がったそうです、SF。いやまあ、いろんな作品があっていいとは思うんだけど。

一時代を飾った作家に、極東の島国の学生が黙祷。
彼の死についてのNASAの人のコメントが素晴らしかったし、泣けた。
042.gif



今月号の表紙。

←公式サイトへ。





大学入学直半年後くらいに、当時隔月だったこの雑誌を書店で読んで、ピンと来た。
「ああ学生っぽい」

「大学生っぽい」「すごく大学生っぽい」「特に私立文系っぽい」
「都心からちょっと離れたところにある私立文系の大学生が暇潰しに購読するのにこれ以上適した雑誌があるものだろうか」
「むしろそれ以外の購買層って想像つかないんすけど。ピンポイントで俺みたいなの狙ってるとしか思えないんだけど」
「世界をまたにかける実業家とかが買うとは思えんし」

簡単に説明すると、国際ニュースのセレクトショップというキャッチにある通り、各国の新聞社や通信社、出版社と提携して、毎日紙面やテレビを賑わす世界中のニュースから、ここの編集部が「面白そうな」ものや「変わった」話題、「hot」なネタをピックアップして掲載する、という、ニュースのつまみ食い的な雑誌である。

今月号の場合。
冒頭に「世界一の金産出国は?」というクイズが。
ページをめくると、靖国神社をテーマにしたドキュメンタリーがリ・インという中国人監督によって制作されたとか、4月12日から東京・大阪で公開されるとか。「話題の人々」では、ホメイニ師の孫とか、インドネシア版「24の瞳」といわれる作品の著者とか、無事出産を果たしたHIVキャリアの人なんかが紹介される。特集の「Fashion confidential」では中東のブランド店誘致合戦が興味を引いた。「ノーベル賞作家の書斎を訪ねる」には大江健三郎が出てる。これまた特集「バグダッドの日常」について表紙に「自爆テロだけじゃない」そりゃそうでしょうなんだよその文句は、とは思ったが、内容は結構良かった。イラクの国会は国旗変更の議論に結構な時間を割いたんだそうな。

……まあそんな感じの雑誌です。文章の量はかなり少なく、本当に話題の入り口だけ、ニュースの全様をさらっと紹介するものばかりで、特に突っ込んだ論評は無いのだけれど、それがこの本の良さだと思う。

フランスの同名誌からヒントを得たんだそうで、ちょっと出典元の提携誌がリベラル寄りな気もするけど、文化相対主義に則ってやるのが正しいタイプの本なので、たとえば書かれていることと記事の引用元、国籍を比較したりとか、読み手が色々想像を膨らましたり、ネットで詳しく調べたりする為の入り口として最適なんじゃないかと。そういう意味では、ネット社会に対応した紙媒体情報の、ひとつの形態ではあるかもね。

何より、読書中の、ありとあらゆるカテゴリー的な、そして地理的空間的なトリップ感覚が楽しい。

「世界が見たNIPPON」では、毎号海外メディアにおける日本関連の記事を載せていて、その手の「日本はどう捉えられているの」話が好きな人にはたまらんと思う。かくいう自分もその一人である。

あと森巣博のコラムは正直ちょっと好きになれないが、元外務省官僚の佐藤優氏や、評論家の山形浩生氏の連載が読めるのは嬉しい。

カンダハルの石鹸売りはレイチェル・ゾーの夢を見るか。
おススメの雑誌です。
特に、ヒマな私立文系学生の皆さんに。
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