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Yahagikyo
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38
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男性
誕生日:
1985/06/19
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anorexianervosa__
(アット)hotmail.com
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28 2024 / 03
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隙だらけ。
そんな人間てイタい。
と思うヤツも多かろう。

でも最近ハッキリと自覚しました、私は隙だらけで居たいんです。
大学始まっていきなり酒の席が2度訪れて、何となく気がついたのだが。

ボケとツッコミのどちらが漫才の主導権を握るのか、という問いがあったとして、まあ解はよりけりだとしても、それは「ボケ」だろう、と即答する人間だと思うんだよね、俺は。いや、田中はいらないよ太田だけで良い、とかそういう意味ではない。そもそも2人以上で成立するのがコントじゃないか。言いたいのは、ネタ一つ分の確信部分をセリフとして吐き出すのは疑いもなく「ボケ」なんだと。

ボケって凄いよ。お笑いとか全く詳しくないが、ボケにはあらゆる確信が詰まってるんじゃないか。
天然ボケは才能としての芸術だ。
ネタとしてのボケは知性と努力の芸術だ。
いきなりなに口走ってんだ。

あまり楽しい話ではないが。
「笑い」というのは実際のところ、人間の攻撃性が発露される場所でもある。
他人をわざわざ攻撃する器量、攻撃しても大丈夫だという核心が無いとツッコミは無理だ。
故に松本人志的「場の空気を切り裂くような」ツッコミは敵も作りやすい。
明石家さんま的なボケは、まあ平和ボケとでも呼べばいいのか、その場に温和な空気を形成し、周囲を同調させる事で何気ない一言でも笑いへ持っていける。がしかし、笑ってもらうために常に味方を作らなければならない。

さんま型はハッキリ言って隙が無い。場の空気は完全にさんま一人が持っていって、ツッコミによってそれを切り裂こうものならヤジが飛ぶだろう。
それに対して松本型は、ツッコミを入れる松本自身が隙だらけだ。にも拘らず誰かが松本にツッコミ入れてもあまり面白くない。こっちもやはり、松本が好き放題言える場の空気みたいなものが形成されているんだろう。そういう意味じゃ、隙がない、もしくは、隙を突かせない、とも言える。

場の空気。

この際はっきり言わせて貰うが、私はコレが大嫌いです。

別に空気の読めない人間ではない。

だが時として、物凄くこの上なく、読んだその空気をブチ壊したくなる。
切り裂きたくなる。
「空気嫁」などと口にしたり、態度に出す人間を軽く軽蔑もする。

そして実際に空気を切り裂いちゃった後、新しい空気でその場を満たす、何てこともしません。
する気が起きません。
そんな隙だらけの人間です。
そしてそんな隙を突いて俺にツッコミを入れられる人間がいたら、マジで尊敬します。
師匠と崇め奉るでしょう。

…まあ、この場合の「空気」っていうのは、笑いを取る場面においてだけれども。

空気に頼りたくないんだよね、笑いに関しては。
あ~俺またアホやった畜生、とか、お前馬鹿じゃねえの、とか。
それで笑うのに「空気」なんて要るか、と。

ただまあ、ヤマなしオチなしでも、ゆるりと、もしくはダラダラ、語るのが一番自分の性に会ってはいて、これにはやっぱり「空気」が要るよなあ、とは思うんだけれども。
そこにオチやボケやツッコミを持ち込まれた瞬間が、ひょっとしたら俺が「空気嫁」と感じる瞬間かもしれない。
そんな事口には出さんがね。


…話を最初に戻すと。
こうして文章を書き連ねている瞬間も、やはり、隙間を埋めてるなあ、と感じてしまう。
何かを語ることは実際それ自体が隙だらけで、いくらでもツッコミの入れようはあるんですよね。
どんなに完璧な文章でも野次ろうと思えば可能なんだ。

その隙を埋めようと足掻いた瞬間、口数が減っていく。

自分で言うのもアレだが、野次ったり突っ込みいれるのには物凄く便利な脳を今のところ私は持ってしまっているので、それで他人を傷つけるのを過剰に恐れたり、そのドS脳の矛先を自分自身に向けて、正しい言葉や無害な言葉を語ろうとするあまり、結局何も口にする言葉がなくなってしまう。
そいうことが、年を取るにつれて増えている気がする。

隙を埋めていこうとすれば、結局何一つとして語れなくなる。

隙だらけで居たいです。いくつになってもね。

あわよくば初対面の人間にツッコミいれて治療不能な心の傷を負わせたり、どれだけツッコミが入ろうがボケ通せるだけの宗教めいた信念を持ちたい。

あ~あ、相変わらず変人だな俺は。
心理学やってるとこういう事をよく考えてしまう。
社会学だけやるって訳にもいかないもんで。

笑いをネタにしたついでに、ここ数年で一番爆笑したであろう洗練された一発ネタを書いとこうと思う。
2つばかり。


① ネコが(ry

② ふとんが(ry
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08 2007 / 10
浅野忠信。
ざっくばらんにあらゆる役にハマっているようで、その実独特のオーラで「ああアサノだ」とすぐバレてしまう役者ではありますが、この[Focus]では最初誰だか全く気付かなかった。
まるで能でも観ているような、限界まで抑えた演技をする役者だと思うんだけど、それがこの作品の役柄と完全にマッチしていたからでしょうか。


21JWFRPMC7L._AA140_.jpg[Focus]
監督 井坂聡

出演 浅野忠信
白井

ストーリーだけ見たら完全にカルト映画だ。
いやそもそもがカルト映画なのか。
ただ、その流れを見せる手法が斬新かつ完全に一貫しているから、なんかB級映画とは呼びたくなくなるんだよ。
ある意味、一発ネタ。
だが手を変え品を変え、たった一つの角度からの視点を驚かせてくれる。

冷たく渇いたフリをしている、ぬるくジメジメした空気が。
演出された演出とリアル、演技される演技と素の顔。
それらも含めて、なんつーか全体的に、90'sなカオリ。
当たり前か。
当時に置き忘れてきたフィルムを偶然見つけて、「ああそんな時代でしたなあ」と、別に懐かしむでもなく、むしろ苦笑いを浮かべる事が出来る、たとえばそういう映画。

1カットの長さである種の迫力が作り出されています。
最近の映画って編集しまくりでなんかちょっと萎えるんだよね。

1996点。
柄でもない映画を観てしまった。
なんとなく「最近の邦画でも借りてみるか」と。

そう言えばTVCMやってた当時、何となく興味は沸いていた気がする。プロデューサーだけど岩井俊二も関わっているし。が、しかし劇場で観ると、高く付く。その上、余計な出費も伴いがちである、結局スルー。なんかすげー普通のよくありそうなタイプの作品だったんで、そういうことは良くある、だって少女マンガみたいなタイトルだし、ていうか、
市原隼人が出てるし…。

41CHVmKJ28L._SS500_.jpg虹の女神 Rainbow song

監督   熊澤直人
出演   市原隼人
     上野樹里
    蒼井 優
     佐々木蔵之介
     相田翔子


  
例のセカチューが出たあたりから邦画にもセカイ系の匂いが徐々に立ち込め始めて、多分これもその流れを汲んでるんだろうな~と思っていたら、序盤でいきなり○○○○が起こりました。
嗚呼ヤッパリ。
そのちょっと後のシーンで、いきなりホルストの『jupiter』が流れ出す。
置いていかれる。唖然とする。なんでこの曲なのよ?
恋愛映画に組曲惑星から木星。まあ合わなくもねえかな…。
鑑賞後に思ったけど、この微妙な違和感は狙ってやってたんだろうか。

ひょっとしたらば、今後半年くらい、
「木星」にはこの映画のイメージが付きまといそうだ。

虹かぁ~
巨大隕石かぁ~
7点。

言ってみれば良作です。本ブログの点数は作品の良し悪しとは全く関わりがございません、ご了承のほどを…。

※以下ネタバレ



それって航空機史上に残る大惨事じゃん、しかもデスバレーですか、みたいな飛行機事故で、死んだくせに遺体に損傷が少ないとかいう台詞があったり、初代GB並みの頑丈さを持つ携帯電話だったり、主演の二人が抱き合うと、いかにもCGな虹が水面に反射していたり、するのに、何だろう、このリアリティ、何?

思ったが、飛行機事故を自動車事故に置き換えてもストーリーに影響なんて全く出やしない。
にもかかわらず飛行機事故なのは、アレだ、

これが所詮は作り話、映画の中の物語だからだ、うん、そうだろ。

だったら巨大隕石でも地球滅亡でもオッケーだろ?
というのが、あの劇中劇なんじゃないだろうか。

始終男の視点で記号的に描かれる本編とは対照的な、あの話が、ヒロインの主観として一種シュールリアリスティックな手法で描かれ配置されている。という事は、この本編も、それ自体が上映される現実に対して同じメタ構造を持ちうるわけで。
それが意図されていた物かは知らないけれども、誇張された現実は創作であって創作ではない、みたいな、事を示唆している。そんな気にさせてくれる、劇中劇というのは、毎度毎度。

まあ、んな事は昔から散々言われつくしている。
ので、本編のリアリティについて。

市原隼人にぴったり、今風のフラフラした、未熟で未発達な若者。
記号的でステレオタイプな主人公。
ヒロインが拾ってくれなかったらお前ニートだったぞ。
男として最悪の態度ばかり。でもリアルだ。
リアリティ感じる俺がひょっとして最悪なのか。

相田翔子扮する自称26歳実は34歳の女。
リアルだな~居そうだよなこんな女。ていうか居たよこんな女。俺は全然関わらなかったけど。

制作会社の現場。佐々木蔵之介演じるプロデューサー。
まあ、ありそうだ、居そうだ、知らないけど。全体的に。

でも一番リアルなのは。
あれだ、大概の人間は一人で死ぬっていう、しかも物理的にだけじゃなく、本当に一人のまま死んじゃったという事実を突きつけられる事ですか。
ちょっと若すぎるけど、歳は多分関係ない。歳は関係ないって、そういえばそんな台詞もあったか。主役の二人が歳のわりに凄く幼い。

劇中劇のラストと、本編の結末のギャップ。
でも一人ではなかったかもしれないという、
虹のような、創作のような、淡い希望。

すごい、リアル。
泣けるほど。

ところで鈴木亜実は何処に居たんだよ。
ああ、秋だね~。
大好きだ、秋。
嘘の要らない季節。

夏季休講最後の3日間要りようで実家に帰っていた。
ジーンズを買い、有人とダラダラ喋り、明け方部屋に戻り、
午前10時に目が覚めて、ぼんやりと陽光を眺めつつ、
「実は、俺って恵まれてるんじゃ?」
などと、ぼやく。

他人からの賞賛や激励を、イチイチ、義務感や責任感に転化していたら、いつか死んじまうっつーの!という。

恵まれていると感じたなら、そこで思考はストップにして、それ以上突き詰めるのは止めておくべきだ。そんなことに、気がつくな、今更。

あと、時流に乗り切れないタイミングで観たアレを、
時流に乗らない程度に遅れたタイミングでコメントしようかと思う。
あまりコアなエヴァ語りはしない。恥ずかしいからしない。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 庵野秀明 0.000000001点

※開始1分 『この監督って、なんとなく、作家性と娯楽性とお金の流れが、不可分だっていう、
         信念か、確信めいた執着があるのかもね。なんかキモイね俺。』

※開始20分『いまさら気が付いたけど、俺別に、ロボットアニメとか好きじゃなかったわ』


※開始100分『ウタダの歌は良かったね。括弧いい。』

ヲワリ。
アカルイミライで知った黒沢清。
回路とか降霊とかドッペルゲンガーとか叫とかでホラー映画監督と思われてそうではあるけれども。
どうもホラー映画には思えないんだよね。別に怖くはないし。

いや、ほんとに怖くない。
ここまで怖くないものをホラー映画扱いしちゃっていいのか。
『叫』はなんか、Jホラーブームの影響ありありでつまらんかったですよ。


4166ERHW0YL._SS500_.jpg監督 黒沢清

出演 役所広司
    萩原聖人








黒沢映画っていつもなんか「有る」んだよな~、とか、この人が監督した膨大な作品のごく一部だけ観て言えたものではないかもしれないが。

つまり映画を支配している固有の空気の事なのですが、単純に言えば「不安」だとか「浮遊感」になるのか。
でもどうも、しっくり来ない。「幽霊感」とか。
悲哀の感情をスパッと拒絶したときに生まれる、ある種の虚無感、虚無感に伴った激情のようなものが、方向性が定まらず、発火するでもなく、ふわふわ幽霊のように浮遊している、そんな不安。

そういう不安を噴出させる発火装置が、この映画の萩原聖人だったり、アカルイミライの浅野忠信だったりするのだろうか。

※以下ネタバレ



ラスト付近、ファミレスのカットの前に登場する遺体はおそらく、主人公の妻なんだろう。
役所が萩原を撃つシーンは現実を描いたものなんだろうか。

また勝手な考察をさせてもらうと、あの銃撃のシーンを描けば、妻を直接殺めるシーンは要らないし、妻を殺してしまうシーンがあったら、敢えて銃撃のシーンまで描く必要もない。その二つは主人公の不安の解消という共通の意味を持っているからだ。

不安を文字通り撃ち消すあの場面は、この映画のカタルシスなのか。
黒沢映画っていつも、どう頑張ってもカタルシスに成り得ない、
失敗反応みたいな悲しいカタルシスを描くよなあ。
土産に買ってきたはずの、かぼすリキュールが、半分近く空けられている。
美味いよこれ。

半年前北海道に行った時にぼんやりと掴めていた事柄の幾つかが、もはや完全に透けて見えてしまっていて、今度の九州でも、まあなんと言うか心ここにあらずといった気分だった。

海岸で、砂利のように積もった小さな貝殻を踏み歩いたりとか。

博多の街の明かりを映す河の、ほとりの屋台のラーメンとか。

味も、感触も、まったく覚えていません。

別府で地獄の大安売り的光景に合う。
観光地化される地獄。
シュールだ。

もうちょっと大人になってもいいんじゃねえか、という部分と、実年齢よりも老けてしまった部分、というのは誰しも持ってはいるだろうけど、俺は両者のギャップが開きすぎている。

このままほっとくと本当に「分裂」しかねないなあ、という危機感。
年を取りすぎたほうのヤツは、そろそろ寿命を迎えさせて葬ってしまったほうがいいんじゃねえか。

と思って、例の小説をまた書き始めている。
どうなる事やら。
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