忍者ブログ
or his will
twitter
最新コメント
[11/15 Yahagi]
[11/14 Nishikawa]
[04/12 Yahagi]
[04/12 Yahagi]
[04/07 Nishikawa]
カレンダー
05 2017/06 07
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
ブログ内検索
最新トラックバック
プロフィール
HN:
Yahagikyo
年齢:
32
性別:
男性
誕生日:
1985/06/19
自己紹介:
連絡先
anorexianervosa__
(アット)hotmail.com
バーコード
3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
28 2017 / 06
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

611o6ExTUbL._SS500_.jpgはい。


アレです。

iPodのCMのアレが収録されている奴です。






大御所バンドの時事ネタ、と言えなくもないけど結局日本では他国ほど人気ないし、発売からもはや1週間弱が経過しているわけですが……

好きなので。




このバンドの哲学は変わっていない。
たとえBrian EnoやMarkus Dravsをプロデューサーに据えてこの人達の経歴にバンド名を連ねても、たとえARCADEFIREみたいなパンクなポストロック系の音をいっぱい取り入れたりしてみても、1トラックに2曲分を収録したり1曲目のイントロとラスト曲のアウトロを繋げたりとか変則的な構成をやってみても、Coldplayの根幹、と勝手に自分が思っている、表出されるエモーションの色合いは殆んど移ろっていないんじゃないかと思うんです。

なんつーのか、もし変わったのだとしたら、前作「X&Y」が、それ以前の2作ほどは好きになれなかった自分としては、このバンドの哲学が若干、ほんの少しポジティヴな感情を描くようになったのは、実はその「X&Y」からだったと思うので。

じゃーあ、何でこんなに音作りの部分が変わったのか。
知らない。

……知らないけれども。
ロックバンドとして“かつて誰も試みなかったほど”オーソドックスに、しっかりとリズム刻みながらベースやギターすらキチキチ韻を踏むような演奏をやってた彼らは、前作まででそのスタイルが生み出せるものを完成させてしまったんじゃないかな、と、ふと思った。特に2作目のアルバムまで顕著だった“抑圧と表出”“静寂の中の激しい感情”、相反する感情のミクスチャー、ロックとバラードの混合みたいなものから、その“静寂”や“抑圧”がすっかりなりを潜めて、“激しい感情の表出”という、一見正反対の音楽性が現れたんじゃないだろうか。

にもかかわらず、変わってないなと思わせるのは。
その“激しい感情の表出”の中に、やっぱりどこか“静寂”が潜んでいるからで。それまでと因果関係がひっくり返った形で、その“静寂”が、むしろ安全でポジティヴな、確固としたものとして据えられているからこそ、そういう確信を持って曲が作られているからこそ、その外側へどこまでも無尽蔵に、多種多様で変則的な音作りが、Coldplayというバンドの中で実現できるんじゃないでしょうか。
今回のアルバムは「第2章のはじまり」と位置づけられているみたいで、一度そのサウンドを耳に刻めば、これがどういう意味か長々と語らずともはっきり分かるんだけど、「モノクロからカラーへの移行」は、モノクロームの中で力強くしっかりと描かれた線があったからこそ、大成功したみたいです。

意地悪い言い方かも知れんが、Coldplayはこのviva la vidaで脱U2、脱レディオヘを完全にやり遂げたんじゃないかと。心臓部分に00年代を抱いて、さらにその先へ発展しようと足掻いて突き進むんだけど、それでもやはり、ちゃんとロックバンド。



42


この曲が、多分一番顕著に上で言ったことを表していると思う。
あくまで俺がそう感じた、ってことではありますが。


Lovers In Japan/Reign of Love

JPOPのシングル曲とカップリング曲のような。



Viva la Vida


CM曲。
歌詞もバックのオーケストラも壮大ですばらしい、そしてどこかもの悲しい。
アルバム的には少し浮いていなくもない。

…日本版のボーナストラックって、どう考えてもアルバムの流れというか循環をぶった切ってるよなぁ…
PR


水道>電気>ガス>ネット


最近、自分にとっての“使えなくて困るものランキング”が上記のとおりだという事実が明々白々化しつつあったりなんかして、学校からでも人様のPCからでもネットは閲覧できるというのも一因なのかもしれないけれど。

近況でも書き綴ってみましょうか。


1、オンラインゲームにどっぷり

たぶん今1,2を争うほど流行のFPSである某SAの事です。クランにまで加入してしまった。いや、一人で引きこもってるわけじゃない、断じてそうではなくて、そもそも自宅のPCでは性能が足りずまともに動かないので、友人宅で駄弁りながら夜通し遊び続けたり。H市内にあるマンガ喫茶に深夜4,5人で乗り込んできてあーだこーだ騒ぎながらタバコふかしてる集団がいたら、そのうちの一人が俺かもしれない。

2、体調不良

こう、寒いのか暑いのかよく分からなかったり、長い雨がやんでようやく洗濯物の天日干しができるなと思ったらいつの間にか文字通りに雲行きが怪しくなって帰宅時にピンポイントを狙ったかのようにびしょ濡れだったり、むしろ帰宅した自分が傘を持たぬままびしょ濡れだったり。やはり一人暮らしをはじめてから、確実に季節の変わり目に体調が呼応するようになっている。何かが足りないらしい。その欠如した養分がなんだか分からない。分かったら今すぐにでも摂取したい。いろんな栄養素を牛乳と野菜ジュースで補い過ぎだからなあ……

3、もうすぐ23イヤーズオールドマン

では、オールドマンなのか否か。まだヤングマンのはず。だと信じたい。

少なくとも10代の頃イメージしていた“理想の20代”とは程遠いというか、むしろ同じベクトル上の対極にいる気がする。自然に、こっちへこっちへと流されるように自然に。当たり前だけど、時間の経過というのは確立百パーセントで存在する過去の事実が連なり、積み重なってゆくことで。そういう過去の記憶は、現在から未来まで自らの行動の指針となるものであると同時に、動かしがたく自分自身を形作っている価値判断の体系なわけで、よほど強く固めた意志や、二度と味わいたくない感情でもない限りは、これからもきっと、今までと同様の選択を、俺はするんでしょう、と思う。

最近変な夢ばかり見る。
そしてまたネット繋がらなくなりました…


41KE8QWCHML._SS500_.jpg北田暁大(著)

NHKブックス





もしくは「ワラwう日本のナショナリズム」。

微妙に古い言い回しだと「藁う日本の~」となる。

いつの間にやら、2ちゃんねるでもない場所で、それどころか日常的なメールの文章においてすら頻繁に“w”が使われるようになっていて、自分自身では殆ど使わなかったけれども、(笑)→(ワラ)(藁)→(warota)(ワロス)とかそういう変遷を横目に見知ってきてしまった自分としては、それらを差し置いて“w”が結局世間一般に浸透するようになったのはなぜだろう、と時々思っていた。りした。

そのぶっちゃけどうでもいい疑問が、本書を読了する事で、決着いたしました。
“アイロニーを含むから”ではないだろうか。

つまり、「笑い」より「嗤い」に近いんだろうな、と。
たったの一文字で皮肉の感情を喚起して、そのパワーで読み手の笑いの感覚をくすぐるんじゃねーのかな、と思った。
Systemofwaros1.jpg

(あやしい図にしてみた










でも、今のローティーンあたりの人にとってはひょっとしたらそんな感覚ははじめから無いかもね。以下が本文なんだけどね。

で、この“アイロニー”、“皮肉”と“反省”をキーワード、主軸として据えながら、戦後史における文化思想を60年代から00年代まで読み解いてみる、という、そんな独創的視点で書かれたのがこの本です。

なにしろ安保闘争から糸井重里から2ちゃんねるにいたるまで、赤軍連合から田中康夫からナンシー関からピンクレディー、果ては「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に至るまで、例外なくすべて“アイロニー”というモノサシで計ってみせるのがすごい。その説得力がまた凄い。しかも、そのモノサシである、“抵抗”“アイロニー”“パロディ”の、それ自体の構造の解体・分析を同時に展開していく過程がまた面白いんです。ヘーゲル―コジューヴの言うところの(フランシス・フクヤマのアレとはまた微妙に違う意味での)人間が所与の環境への否定(的な対象化)を止める“歴史の終り”という概念が、ポストモダンの“ポスト”がいつまで経っても外れない理由なんだろうか。


単純化してしまうと、60年代安保闘争のなかで繰り広げられた“正しさゲーム”に、そこから“降りる”こと、あえて反抗しない事で逆説的に抵抗したのが70年代の消費社会的コピーライター、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」においてはその抵抗の姿勢すら抹消記号を引かれて消去され、その後高度に発達した広告メディアの支配力そのものを“テレビの裏側を見せるテレビ”“メディアの影響力をおもちゃにするメディア”として、自己言及的に皮肉ってみせたのが80年代のテレビ文化、そうして次第に内輪化してゆくマスメディアに対して、あくまでこれも“ネタ”として面白おかしく叩き台に上げ、皮肉ってみせるのがインターネット上に散見される“マスコミ叩き”なんだそうな。


『ナチズムとシニシズムの共犯性を剔出したペーター・スローターダイクが指摘するように、アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰される。掛金は、反左派的な本音などではなく、―左派/右派の彼岸にある、(とかれらが考える)―ロマン的対象なのである』―P.211より抜粋

上記の抜粋は著者の2ちゃんねる評なんだけど、つまるところ、2ちゃんねるやそれにかぶれた世間の人々は、一般に言われているように右傾化しているというよりも、ロマンチストになりつつある、しかも“シニカルなロマンチスト”、というかロマン主義的なシニシズムに浸っている、らしい。はっとさせられるものがあった。

それが正しいかどうかはともかく、現代社会を眺めるための新鮮な視点と驚きを提供してくれた著作だったのだけれども、『社会に対して処方箋を提供する側にあるはずの“思想”は、歴史なき時代において常にスノビズムに敗北する運命にあるのだろうか』という趣旨の言葉で締めくくられている。なんというか、自分も含めて、内面に「お勉強モード」「お利口さんモード」を抱えている、ある種の人々は、学歴とかと無関係にこういう諦念を感じた事があるんじゃなかろうか。それで「お勉強なんてやってられるかよ」的に、「書を捨てて街へ繰り出し」ちゃった人も一杯居るんではなかろうか。

最近すごく「お勉強モード」な自分としては、その「お勉強モード」である理由について、思う。

「好きだから」でしかないんだわ、やっぱり。

現代の若者として、この北田さんの言う“シニカルなロマンチスト”の1人として言えば、情報の氾濫する時代で、「思想」と呼ばれる言葉を紐解くためにアタマを使う事、が、結局一番大きな“愉しみ”の一つだからだ。誤解を恐れず言えば“趣味”の範疇に近い意味で、自分にとって数あるロマンチシズムの対象の一つが“思想”なんだ。嗜好が徹底的に細分化してゆく時代にあって、やっぱり変人なのかもしれないが、社会学や哲学のテクニカルタームが踊っているページに心躍らす奴なのだ。

これに気がつけたのは良かった。いや、どこかで薄々感づいていたことをきちんと文章化できたのが良かった。ともすれば「お利口さん」を排除したがる90年代後半の社会の空気を鋭敏すぎるほど感じ取って、必要以上に「バカっぽい」振る舞いを繰り返してきた(ある意味本当のバカな)奴としては、その反動でペダンティズムに陥ることが一番怖かったので。でもまあ、外来語だけど、ペダンティックという言葉がもうすでにPedantic、っていう状況はどうなの、とも思うけれど。

学問に対してアイロニカルに振舞いすぎて、結局学問に着地してしまう、という、皮肉。

13 2008 / 05
講師"How was your goldenweek?"

自分"a~......am.......e~.......It was ........soso...very....very....
...................................peaceful."
e0e45e99.jpg監督
松尾スズキ

出演
佐倉明日香:内田有紀
焼畑鉄雄:宮藤官九郎
ミキ:蒼井優
江口:りょう
コモノ:妻夫木聡
西野:大竹しのぶ


……と、「17歳のカルテ」(原題:Girl,interrupted ジェームズ・マンゴールド監督 1999年米)について。

似てるって。
マジで似てるって。

鑑賞中ずっとこの2作の違いについて考えを巡らせてしまうほど似てるっての。だから「17歳のカルテ」と「クワイエットルームにようこそ」について。

精神病院の隔離病棟に、症状のまったく異なる患者を入院させるのってどうなんだろう。患者同士が軋轢を起こして、さらに症状を悪化させるだけなんじゃないのか。そこで繰り広げられる光景は、現実の精神病院に比べれば、まあ映画として誇張されてるはずだけれど、コミカルなのがシニカル。

質病を患った人間をネタとして使っていいんですか?という倫理的な問題も生じる。
「17歳のカルテ」は、真摯にこういう問題と向き合った映画だったと思う。
「クワイエット~」で一番気になったのがこの部分。何しろ「恋の門」の監督だし、嫌な予感が的中したというか、「お笑い」のネタにしてるよな、あからさまに。
コメディとしてこの映画をカテゴライズして欲しいんだろうか。それは無いと思うけど、精神疾患をコメディタッチに描くというのはあまりに鋭利な諸刃の剣で、相当慎重にうまく立ち回らなければやっちゃいけないとは思う。それを「やっていい」レベルに、この映画が至っていたかというと、今一歩だと思いますね、正直、ね。何が足りないかって、むしろコメディならコメディ、シリアスならシリアス、っていう割りきりが足りてない。「これはブラックジョークだぞ」と監督本人が思いながらやったってブラックにはならない。「サウス〇ーク」のやり過ぎっぷりを少しは見習ってくれと。

なんて、辛口に言い放っておりますが、主人公の周囲をめぐる人物像は大胆至極かつ繊細で、引き込まれた。文学っぽい、一歩引いたアンニュイな独り語りが、「クワイエット~」の核なんじゃないかとも思う。「一歩下がって眺めてみれば人間なんてどいつもこいつも滑稽なんだよ」っていう達観した視点が特に邦画には共通して潜んでいるけれど、それをここまで全面に押し出して主張する人は居なかったんじゃないかなあ。同時に、「何をえらそうに、作者のお前だってその人間じゃねーか」と反発したくもなりますが。

底が抜けたような「弱さのスパイラル」に陥った人間ばかり出てくるのが、それによって「人間ここまで弱くなれるぜ」っていうブラックな主張が、精神疾患というモチーフともあいまって、「クワイエット~」のテーマなんだろうなあ。文学っぽい。「17歳のカルテ」との最大の差異はそこだ。「17歳のカルテ」はまだ希望があった。アメリカンなプラグマティズムとオプティミズムだ。「ちょっと人と違うだけ」っていう。確かにこちらでは主人公の症状が比較的軽度の境界性障害でしかなかったけど。

最後に心理学をやっている関係で言いたいのは、「健康な精神」について。
「完全に健全な心」というのは、無い。ぶっちゃけて言うと、「健康な精神」も定義不能だ。科学的とかどうとか言う前に、本人が自分のメンタルを「健全」だと感じるかどうか、というのと、その時その時代の「社会」が、個々の人間をどう許容するか、社会的な存在としてうまく廻れるかどうか、という、至極曖昧な基準で判断する事しかできない。そういう意味じゃ、ある個人が「社会そのものが病んでいる」と感じてしまった時、その人は社会の側から「病人」として扱われる可能性を抱いてしまう。精神病院の隔離病棟は、社会にとって「適応できなかった邪魔者」を隔離しておくための都合のいい外部なのかもね。蒼井優の役が、それを見事に描いていた。

あと庵野秀明さん何やってんだ。役者は、向いてないって。
51f--UNTBxL._SS500_.jpg監督
堤幸彦

出演
井出野辰耶(ディノ):柳楽優弥
騎馬笑美子(ワラ):石原さとみ
柳元紳一(ギモ):田中圭
丹沢志緒美(タンシオ):貫地谷しほり
本橋阿花里(テンポ):関めぐみ
芦沢律希(リスキ):佐藤千亜妃



石原さとみの唇が。


唇はいいとして、やっぱりなんか少女マンガっぽいなあ、これは小説が原作なんだけどさ。

漫画の中で生まれた文法を映像に、特に実写に持ってきて通用するのか、となると、正直「う~ん」ってなっちゃう人なんだけど俺は。古いんだろうか。それ故にTVドラマとかでも「このシーンまるっきりコミックだなあ」という場面があると微妙に興ざめするんだけど。世間一般の話題についていけない人種なんだろうか。ていうか現実の中学やら高校生活で漫画的なノリを見せられると何も喋れなくなってしまうことが多々あったんだが。ノリが悪い人なのは先ず間違いない。

……と、いうテーマで突き詰めて考えたら、マンガっぽい物の中で、一番実写とソリが会わないのは「ギャグ」だと気付いた。二番目が少女マンガに出てくる「王子様キャラ」つまるところヒロインが思いを寄せる男。これは男女入れ替えて、少年漫画のヒロインでもアリ。主に「のだめカンタービレ」と「花より団子」で分析したんだけど。

こういう要素って、実写化するときは絶対セリフや人物造型をそのまま持ってきちゃダメだろう。なんていうか、「アク抜き」してやらないと。

でも、邦画を復活させた要素の一つが漫画作品のエッセンスであることは間違いないんだよね。それは、まあ時代の変遷とともに日本人のファッションセンスやヘアスタイルが漫画の文法というか、ダイナミックなモードと親和性の高いものに変わっていったからというのもあるけど。下妻物語(観た)とかNANA(観てない)なんかが成功例ではないでしょうか。



また完全に脱線しているので、しかも前述したけが原作は小説なので、それはともかく、この作品の核になる部分の「包帯」だけど。このちょっとメンヘルな舞台設定は、思いつきそうでなかなか思いつかない。似たようなものを自分も昔考えた事があったけれど、それはあくまで似ているという程度で。写実的手法では拾いきれないような、登場人物の内にある「痛み」を、一番手っ取り早く視覚化してしまえる方法ではある。痛みと傷の記憶とともに、それが癒えて行く過程を連想させる、センチメンタリズムと言っちゃえばその通りなんだけど、そこにもう一つ、「淡い、芽生えたばかりの希望」みたいなものが加味された、摩訶不思議なアイテムだよなあ、と。俺だったらあの場所に巻くだろうなあ、とか。

そんなすばらしくよく出来た包帯というモチーフは、けれどもリアルでシリアスなモチーフだったために、コミカルな部分とはあんまり相容れないんじゃないか、と思ったけど、コミカルにしなけりゃひたすら暗い物語になりそうな気もする。群像劇風に仕上がってはいるけれど、やっぱりベースが少女漫画な感じだし。

「葬式」のシーンは、グロテスクだよ、サラッと流れてゆくけれど。心理学をかじっている関係で、こんな話を聞いたことがある、「あっさり口に出して語れるようなトラウマなんてものは実在しないが、そういうトラウマ的物語が人によっては必要」なんだとか。

晩秋から初冬にかけての乾いた空気と、シアンの空に包帯の白が映える。

静かなトーンの青春映画って多いなあ、最近。

一番心に残ったのはオープニングのモノローグだった。
あんなことを思っていた時期が、確か俺にもあったな、と。
15,6歳位の歳で観れば良かったのかもしれないが、物理的に無理じゃん。
忍者ブログ × [PR]