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ほとんどただの独白に近い記事である。
要約すると「ネットとの距離を縮めようと思います」か、或いは「言語との距離を縮めようと思います」になるのか。
多分こんな事を考え始めたのは、サークルの卒業生に宛てたメッセージビデオを撮った事が原因かと。


「書き手がどんなに論理的だと思って書いたとしても、
読むものよっては詩のようなものでしかない」

年明けのあたり、たしか上記のような文章を載せた気がする。つまり形而上学的な言い方をすると、「エクリチュールがパロールを侵食する事態」を指しているんだけれど。誤解を恐れずさらに縮めると、意味するもの(シンボル)が意味されるものを凌駕する事態ってことになるのかな。
まあともかく、そんな考え方が、自分の中にいつの間にやら形成されている事に気付き、自嘲気味に書き込んだ言葉ではあった。

そういう考え方が根底にあるので、自分が普段使う書き言葉話し言葉は、むしろ逆になりがちなのだろう、どちらかというと突き放すように端的であることが多いなと感じる。自分が何を伝えたいかよりも、その場の空間や、聞き手にどう捉えられるかが第一だった。言語の意味性よりも、媒体性が優先される。(「空気を読む」とかそこらへんの話とは、また全然文脈が違って、もっと根本的なもので)

ただここ最近、特に今年に入ってから、それもどうだろう、と。

そういう二律背反的な発想自体、物凄くヨーロッパの近代合理主義に被れているし、同時に時代遅れでもあるのだと、思うのだ。すごく杓子定規で、イビツだなあって。


自己分析の苦手な自分がそれをあえてやってみたところ、思った。
結局のところアレだ。

言葉の持つ暴力性に、怯えていたのだ。
そんなに多くもない人生経験を振りかえってみて、そうなる原因が山のように思い当たってしまうあたり、間違いないんじゃないか。常に、怯えがどこかにあったのだ。傷つけた言葉にせよ、傷つけられたり重荷になっていた経験にせよ、誤解もすれ違いも含めて、自分の言葉を雁字搦めにする鎖であり、枷になっていた。
特に10代後半に触れた3つの奴らがデカイし重いみたいなんですが。
当時は精神的に物凄く痩せ細っていて、その細い芯の部分を理屈と意志力だけで補強していたので、言葉をただの言葉と思えなくなっていた部分もあったのかもしれない。


「言葉の持つ暴力性」
でもこれも、そうじゃねーだろ、と最近感じる。
言葉はあくまで、表層化なのだ。
暴力性なんて、言葉を用いる人間の感情や意思、あるいは錯誤や、すれ違いのようなメカニズム、といった現実の状態そのものから生まれるんじゃないか。

一年前の誤解をわざわざ物凄い労力をかけて解いた経験や、言葉として表層化させた事実を、ずっと後になってそれが嘘だったと気がついてしまった事が、大分昔にあって。それが丁度今ぐらいの季節だった。
すっかりその頃の信念というか、考え方を忘却しきっていた。


言葉はあくまでただの言葉、ただ使い方はいくらでもあるし、時として細心の注意が必要っすね。
月並みだけど「たかが言葉、されど言葉」

……と書いてみると、唐突だが、「俺ってやっぱり日本人だったんだなあ」と感じる。
感じ入る。

「言霊」っていう日本語があるよね。
なんとなく、ポストモダンだと思うんだ。
アニミズムの香りがするけれど、全然原始的じゃなくて、むしろ凄い高度な言葉だよなと。
意味性とか媒体性やなんかで「構築」されたはずの言葉に、霊魂を吹き込む(ってことでいいのか)ために「脱構築」「再構築」を経由してるよ、すげ~!
なんて、思った。

そして。
そう思ってしまうのは、思想とか理屈っぽいものに思いっきり俺が被れているせいだよなあ、とも。
ネットって、言葉があふれすぎていて、時々エクリチュールの飽和した空間のように感じてしまうのだが。
奇妙奇天烈で面白い、でもちょっとヤバイ、異世界のように感じていたのだが。

生きている言葉、情報、「言霊」を探すようにサーフィンするとすごく面白いかもなあ、「リアルなもの」に感じられるかもなあ、なんて。思い直しつつあるので。




そういうわけで。
今まで書かなかったような事を書くようになると思う。必然的に更新頻度は上がると思う。
そんな事前予告である。

ブログという媒体についても思うところは色々あるが、まだまとまっておらず、手探り状態で、半年ちょっとぐらいだろうか、まあ何のためかといえば一番の愛読者である自分のために、ボトルに手紙をつめて流すような感じで、あえてコメントしづらい記事ばっかり書いてきた”ココ”だけど、ほんのちょっとだけでも内容に興味を持ってくれる人がいればすごく嬉しいし、ありがたいです。度々訪れてくれる方にも感謝。

(,,゚Д゚)y─┛~~~~
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無題
やったあ。楽しみにしています。

これだけ色々言えること、考えることある人が、
更新を低くする意味は全然ないと思います。

yahagiの書いた一言一句全て理解しようとは思わないし、
それこそ詩のように読んでしまうけれど、
不思議と詩のように、感情が刺激されるんだよね。
感情を排そうとする文章のはずなのに。

ネットのある今の時代ほど、「言論」するのに適した環境は無い気がするし、言論が楽しいものとして、一般大衆に降りてくる時代でもあると思うのだけど。
ニシカワ 2008/03/15(Sat)04:57:29 編集
無題
コメントありがとう。

>感情を排そうとする文章
そういうタイプだと思われがちなんだけど、感情を拝そうとは実は思ってなくて。むしろ、感情に基づく部分と理屈がベースになってる部分をきっちり分けつつも、両者がモザイク状にちりばめられてるというか、そういう文章書くのが楽しいんだよね。
ロジックとエモーションのサンドウィッチみたいな文章目指してるんだよね。

「言論」っぽいもの本格的に書きたいとは思ってるんだけど、まだ自分のキャパシティだと至らない部分だらけだなという気がするので、「感想」や「感覚」をサンドウィッチしてお茶を濁そうかと。ネットで「正しさ」みたいなもん追っかけるのは狭量になっていきそうな気がするし。

だから「楽しく」というか面白おかしい言論やれたらいいと思います。本当。
それはもう、なんか理想だと思うけど、論争じゃなくて言論をやるんだっていうのが、某巨大掲示板なんかでももっと浸透して欲しいかもなあ。
YAHAGI 2008/03/17(Mon)22:57:13 編集
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