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anorexianervosa__
(アット)hotmail.com
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最近変な夢ばかり見る。
そしてまたネット繋がらなくなりました…
北田暁大(著)
NHKブックス
もしくは「ワラwう日本のナショナリズム」。
微妙に古い言い回しだと「藁う日本の~」となる。
いつの間にやら、2ちゃんねるでもない場所で、それどころか日常的なメールの文章においてすら頻繁に“w”が使われるようになっていて、自分自身では殆ど使わなかったけれども、(笑)→(ワラ)(藁)→(warota)(ワロス)とかそういう変遷を横目に見知ってきてしまった自分としては、それらを差し置いて“w”が結局世間一般に浸透するようになったのはなぜだろう、と時々思っていた。りした。
そのぶっちゃけどうでもいい疑問が、本書を読了する事で、決着いたしました。
“アイロニーを含むから”ではないだろうか。
つまり、「笑い」より「嗤い」に近いんだろうな、と。
たったの一文字で皮肉の感情を喚起して、そのパワーで読み手の笑いの感覚をくすぐるんじゃねーのかな、と思った。
(あやしい図にしてみた
でも、今のローティーンあたりの人にとってはひょっとしたらそんな感覚ははじめから無いかもね。以下が本文なんだけどね。
で、この“アイロニー”、“皮肉”と“反省”をキーワード、主軸として据えながら、戦後史における文化思想を60年代から00年代まで読み解いてみる、という、そんな独創的視点で書かれたのがこの本です。
なにしろ安保闘争から糸井重里から2ちゃんねるにいたるまで、赤軍連合から田中康夫からナンシー関からピンクレディー、果ては「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に至るまで、例外なくすべて“アイロニー”というモノサシで計ってみせるのがすごい。その説得力がまた凄い。しかも、そのモノサシである、“抵抗”“アイロニー”“パロディ”の、それ自体の構造の解体・分析を同時に展開していく過程がまた面白いんです。ヘーゲル―コジューヴの言うところの(フランシス・フクヤマのアレとはまた微妙に違う意味での)人間が所与の環境への否定(的な対象化)を止める“歴史の終り”という概念が、ポストモダンの“ポスト”がいつまで経っても外れない理由なんだろうか。
単純化してしまうと、60年代安保闘争のなかで繰り広げられた“正しさゲーム”に、そこから“降りる”こと、あえて反抗しない事で逆説的に抵抗したのが70年代の消費社会的コピーライター、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」においてはその抵抗の姿勢すら抹消記号を引かれて消去され、その後高度に発達した広告メディアの支配力そのものを“テレビの裏側を見せるテレビ”“メディアの影響力をおもちゃにするメディア”として、自己言及的に皮肉ってみせたのが80年代のテレビ文化、そうして次第に内輪化してゆくマスメディアに対して、あくまでこれも“ネタ”として面白おかしく叩き台に上げ、皮肉ってみせるのがインターネット上に散見される“マスコミ叩き”なんだそうな。
『ナチズムとシニシズムの共犯性を剔出したペーター・スローターダイクが指摘するように、アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰される。掛金は、反左派的な本音などではなく、―左派/右派の彼岸にある、(とかれらが考える)―ロマン的対象なのである』―P.211より抜粋
上記の抜粋は著者の2ちゃんねる評なんだけど、つまるところ、2ちゃんねるやそれにかぶれた世間の人々は、一般に言われているように右傾化しているというよりも、ロマンチストになりつつある、しかも“シニカルなロマンチスト”、というかロマン主義的なシニシズムに浸っている、らしい。はっとさせられるものがあった。
それが正しいかどうかはともかく、現代社会を眺めるための新鮮な視点と驚きを提供してくれた著作だったのだけれども、『社会に対して処方箋を提供する側にあるはずの“思想”は、歴史なき時代において常にスノビズムに敗北する運命にあるのだろうか』という趣旨の言葉で締めくくられている。なんというか、自分も含めて、内面に「お勉強モード」「お利口さんモード」を抱えている、ある種の人々は、学歴とかと無関係にこういう諦念を感じた事があるんじゃなかろうか。それで「お勉強なんてやってられるかよ」的に、「書を捨てて街へ繰り出し」ちゃった人も一杯居るんではなかろうか。
最近すごく「お勉強モード」な自分としては、その「お勉強モード」である理由について、思う。
「好きだから」でしかないんだわ、やっぱり。
現代の若者として、この北田さんの言う“シニカルなロマンチスト”の1人として言えば、情報の氾濫する時代で、「思想」と呼ばれる言葉を紐解くためにアタマを使う事、が、結局一番大きな“愉しみ”の一つだからだ。誤解を恐れず言えば“趣味”の範疇に近い意味で、自分にとって数あるロマンチシズムの対象の一つが“思想”なんだ。嗜好が徹底的に細分化してゆく時代にあって、やっぱり変人なのかもしれないが、社会学や哲学のテクニカルタームが踊っているページに心躍らす奴なのだ。
これに気がつけたのは良かった。いや、どこかで薄々感づいていたことをきちんと文章化できたのが良かった。ともすれば「お利口さん」を排除したがる90年代後半の社会の空気を鋭敏すぎるほど感じ取って、必要以上に「バカっぽい」振る舞いを繰り返してきた(ある意味本当のバカな)奴としては、その反動でペダンティズムに陥ることが一番怖かったので。でもまあ、外来語だけど、ペダンティックという言葉がもうすでにPedantic、っていう状況はどうなの、とも思うけれど。
学問に対してアイロニカルに振舞いすぎて、結局学問に着地してしまう、という、皮肉。
「総括」がゼミで流行語になりました。面白かった。
その時の先生から受けた刺激が、今の僕の指向(僕のとこの雑誌についてで書いたような)を決定づけた気がしてます。
昔はシニカルな人物やメディアが存在したけど、今は2ちゃんねるのおかげで、誰もが匿名でシニシズム気分を発信共有できるから、そんな人物は必要ないのかもなあ。
2ちゃんの中でもとりわけ「VIP板」からは、アイロニーよりロマンの欲求を強く感じるんですけど。
2ちゃんねるに限らず、何かを“叩く”っていうのは、より良いもの、良くなる可能性への期待がなければ誰もやらないしやろうともしないと思うんで、シニシズムとロマンチシズムは表裏一体みたいなところがあるのだと思うけれども、2ちゃんねらーの間にある“叩き合う事を媒介としたシニシズム共有”感覚に、その他大勢のメディアの持つ“アイロニー”が引きずり込まれて、というか、2ちゃんねる的解釈のフィルターを媒介して陳腐にしてしまうところがあると思う。それがまた、メディア叩きを増幅する構造の強化に一役買っているのではないかなあ、と。
…でもニュー速+とビジネスニュース、科学ニュースぐらいしか覗かない奴がこんな事言っててもアレかもしれん。
そちらの学科の授業、教室間違えて入ったのに丸々1時限分聞き入ってしまったことがありました。最近すごくメディア論に興味あって。