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28 2017 / 06
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28 2008 / 09
合宿の帰りに甲府市の友人宅へ寄り、そのまま3泊したのちに、やり残していた3つの用件を果たすため実家へ戻って更に3泊し大学前のアパートに戻る。
当然ガイダンスは終っている。

・モダンとコンテンポラリーについて
(または便器について)

とても言葉にし切れないお話です。

「デュシャンという冷笑家がいて、彼は公衆トイレの便器を取り外してきて、そのまま“泉”というもっともらしい表題を与え、美術展に出品して展示させた」

そんな話を昔聞いたことがある。
ちょっと調べてみれば枝葉ばかり付けられているのがわかるけれども、マルセル・デュシャンのその振る舞いに、現代美術ってそういうものなんだろうかとすっかり思い込まされていた感がある。

2年ほど前、自分は某4分33秒のアイディアをそのまんまパクって映像作品化、サークル主催の上映会で垂れ流してしてしまったのだけれど、その「上映会」という枠組み、システム、絵画に例えるなら額縁、美術館に例えるなら建物とその空間自体という、“アート”呼ばわりされている諸々の事物を下支えしつつ、強固に固着させているものが、その“額縁”そのものが好きなんですって事を表現したかった、というのが一つあった。

清里現代美術館

ところが、そのサークルの合宿でこの度立ち寄ってまいりましたこの場所で、とある勘違いに気付かされました。ナマでジョン・ケージの書いた譜面(五線の上に文字の羅列とか直線とか曲線とか多角形とか円形とかが滅茶苦茶に書いてある)を見るのはショッキングな体験でした。

芸術ARTとはなんぞや。

フルクサスの“運動”が目指していたものとはなんぞや。

まず結論、というか、この場所を訪れて自分が確信した事。

芸術とは“ものの見方”だ。

少し噛み砕くと、芸術活動というのは、“創作”ではなく“鑑賞”にあるのだと。

まあニーチェじゃないけれども、作品をみる者もまた作品によってみられているのかな、と。芸術を、芸術、その言葉が指し示す枠組みとして捉えなおす時に見えてくる、ある画家やその作品を頂点とした一種のヒエラルキー構造、社会的な立ち居地、その中に押し込められ祀り上げられた“作品”が逆説的に、社会の中にありふれているものそれ自体、たとえば便器とかだった場合、鑑賞者はそれをどう観ればいいのか。

デュシャンは本当にダダイストとして破戒的に振舞っていたのか。

“ものの見方”がアートの本質であるならば、売る者と買う者の関係のような受け手と送り手の構造は再び解体され、その気になれば現実の生活に存在するもの全てが芸術になる。

ところが、現実の生活の中で目にするものに対して、人間はそれが作られた目的や意味を理解しているし、それに沿って生きている。椅子は座るという目的のために存在していて、座らなければ意味が無い。ではそれら“意味”や“目的”を剥脱された形で、モノを目の前に置かれたらどうだろう。座れない椅子、用を足せない便器、どう足掻いても読めない楽譜、“意味”のわからない写真、写真、絵画、絵画、文章。

ところが、実は意味も目的も付与されているのだと思う。

美術館と額縁による、“芸術”という社会的枠組みのシステムに乗る事によって、それらは確かに完成している。逆説的だけれど、意味を剥脱する事に意味があって、目的を持たされぬままに存在する事が目的なのだ。だとすれば、デュシャンやジョン・ケージ、ヨーゼフ・ボイス、フルクサスが目指していたものとは、枠組みの破壊ではあっても、それは芸術の枠組みではなく、芸術を芸術としてその狭いカテゴリーへと押し込めようとする人間の、内なる枠組みなんじゃないだろうか。

そうした活動をアートと呼んだ時、建物や額縁といった本来芸術の外側にある枠組みすら、作品群の一部でしかない事になる。それらにとって真の意味での外側というのは、社会そのもの、現実そのものであり、そして同時に展示されている作品そのものもまた“枠組み”なんじゃないのか。その、観るものに対して働きかけようという動的な力が、“前衛”芸術の“前衛(もとは軍隊の言葉)”たる所以でしょうか。
やっぱりデリダの活動を思い出してしまうなあ。彼が言語に対して感じていた危機を、これらの作家はむしろ奨励するんじゃないかという気がする。

だらだらと書いてしまったが、現代美術の一面としてはこういった見方も出来るのではないでしょうか。という、ただの一例でございます。読んでしまったならぜひ一度訪れてみてください、すごい所です、清里現代美術館。

次はロックマン9についてでも書くと思います。
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