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anorexianervosa__
(アット)hotmail.com
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夏場はちょっと神経を研ぎ澄ませてみると、街も田舎も、鼻先をかすめる風に様々なにおいが混じっていますね。7割が“臭い”のほうだけどな。
触覚や嗅覚と記憶とは密接なかかわりがあるのだと思う。ちょうど今ぐらいの初夏の陽光や空気の肌触りの感触、特有のにおいを、もう覚えていないほど昔おなじように体験したんじゃないかと、そんな軽いデジャヴュ体験を最近するようになった。
その事とは関わりがあるんだか無いんだか知らないけれど、先日母方の祖父の13回忌があり、2年ぶりにスーツを身につけて出席した。のだが、お経ってちゃんと聴くとしっかり日本語してるんだなあ、とか、ついに親戚一同に喫煙者であることがバレちまったなあ、祖父の死因は肺ガンだったよなあ、などと不謹慎かつどうでもいいことばかり気になって、坊さんの本尊の住職が最近なくなった話なんかを聞かされても、なぜ読経の直後に無関係な私らにとか、つまり気持ちが締まらないというか、始終浮き足立っていた。もう昔のように、墓前に立ってみても、そこに祖父が“いる”のだという感覚があまり沸いてこない。いや居るのかもしれないけれど、だからといって家族の前で畏まってどうするんだという気もする。自分は70代まで行きぬいた人の死を不幸なものとはあまり感じない。
祖父とは四歳から11歳まで一緒に暮らしていたのだけれど。それ以前までどんな人生を歩んできたのかなんて、たとえば国鉄の本社勤務だったとか、戦時中は軍医だったんだとか、そういう断片的な話でしか知りはしないし、そもそも自分自身で体験した事実も、13年も経ってしまったからには断片的な、追憶によって加工された形でしか残されてはいないだろう。
家族も、世の中も、何より自分自身が、見違えるほど変わってしまったし。
「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著 講談社)という本にもあったけど、人間の体を構成する分子は1年も経てば完全に全く入れ替わってしまうし、マウスのDNAからある細胞の構造情報を除去しても、発生過程で別の細胞がその役割を代替するのだそうな。
また引用するけどグレッグ・イーガンの「順列都市」の方法を用いれば、現代のコンピュータの性能程度でもニューロンのネットワークを模倣する模擬人格が、リアル時間の何万分の一かのスピードならば再現可能だし、そうなってくると、命そのものも一種の情報なんじゃないかと思えてくる。
情報化社会というのは、情報が氾濫し錯綜したり、高度な効率と高速化の達成であると同時に、それまで“情報”に属するものとみなされなかったあらゆる事物が、“情報”として一元化される事なんじゃあなかろうか。この記事の冒頭で“におい”について語ったように。
…まあそんな事はいいとして、最近渋谷の店で衝動買いしてしまったMarc by Marc Jacobsの(ちょっと寝巻きのような)Tシャツがえらく気に入ったので、これ含めた3着ほどで秋まですごそうかと思っている今日この頃です、はい。