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俺、テレビって嫌いでした。
ていうか今もあまり好きにはなれません。
「好きな番組」はあれども、“テレビ”という語に集約される諸々の構造とシステムが好きにはなれなかった。それは一体“何故”だったのか、嫌悪にまつわる根源の理由そのものが、本書を読み通すことで氷解しつつあるような気がします。まあ本当は大学に入ってから漠然と判りつつもあったのだけれど、此処まで緻密に、それを文章化してくれた本に出会えるとは思わなかった。

故に4回ぐらい読み返してしまった。
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テレビジョン・クライシス―視聴率・デジタル化・公共圏
/水島久光

せりか書房








というか、自分の意見、本についてではなく本の中で分析されているシステム論や近代論についての、自分の意見を交えずに書くのは不可能っぽい。
ほとんど自分の意見です。

・・・実はこの記事、載せるべきか否かかなり迷ったんだけれども。
前回の更新から予告どおりにほぼ一月経過しちゃったし載せることにした。




1,ニコ動編

「ニコニコ動画」って、再生回数がヤバイ事になっている動画結構あるよねえ。ニコ動それ自体の閉じたコミュニティの中の母数としての人間が回しているにしては投稿動画そのものが多すぎるし、何よりネットにおけるたった一言語圏の(西語独語繁体中文あるみたいだけど)サイトとしては突飛過ぎる。やっぱり相当な数の日本人ネットユーザーが定期的に利用しているんだよなあ。
それは何故だろうかって、ズバリ言うが、多分他にもこういう事言ってる人間は非常に多いだろうが、

「(かつての)テレビの社会的な立ち居地」をトレースしたサイトだからだ。

本書の著者曰く「コンテンツとしての番組ではなく放送という形態に伴った共時性」「みんなが同じものを見ているという感覚」「リビング・居間といった、家族のコミュニケーションにおける核となる場所に置かれたお茶の間の番人」としての側面、1950年代から1970年代の、「濃密な家族的視聴」を通じて浸透したのがテレビなら。

規模はもっとずっと狭くなるだろうが、「コンテンツとしての動画に“放送”的共時性をもたらすコメントシステム」「コメントをつけたりランキングに上がったりしている動画を“みんなが見ている”という感覚」「2ちゃんねる用語やそれに似た匿名性の高さ、一行レス程度の情報量しか持たないコメント、漫画・ゲーム・アニメ、コミケ的な2次創作コンテンツ、といったオタクのコミュニケーションを核とした」初の動画共有サイトだった事が客足を集めたまず第一の要因ではなかろうか。「時報」がいつまで経っても無くならないのは、そして「生放送」を最近強烈にプッシュしているのは単に広告収入をあて込んだだけじゃないだろう。そのうち、「曜日」を意識したコンテンツ配信を始めるかもしれない。

アキバ系的だろうがそうでなかろうが、マニアックな趣味趣向というのは、今まで複数人でテレビを見ている時のような共時性からはかけ離れたところにあった物だったが、「今、このタイミングで笑ってます」という情報のためだけに「wwww」と打つ人がこれだけ多いのは、そういう共時性感覚が待ち望まれていたという側面もあるんじゃないだろうか。チャット動画なんて掲示板との差異は時間制限とバーの有無だけだし、5,6秒で流れてしまうコメントに書ける情報量なんて恐ろしく限られているのに、それでもヴァーチャルにチャットをしている感覚を持てるユーザーが沢山いるのは、なんかある意味、コンピュータの即時性、ダイレクトさへの一種の反発にも見えて面白いとは思うんだけど。というのも、へヴィーなネットユーザーが求めるものって情報よりコミュニケーションじゃないかと思うので。ネット上の文章による言語的なコミュニケーションは、多様化しつつもある意味行き着くところまで行ってしまっていて、もはや会話や議論や意見交換や馴れ合いなどと呼ぶよりも、遥かにお堅いものだったりシリアスだったり不毛だったり濃密かつ専門的だったりするので。

でもニコニコは最近めっきり覗いていないんで書けるのはこのぐらいです。


2,日常のコンテンツ編

突然だが、現代における文化の価値とはコミュニケーションツール以外のものでは無いように思う。

いやだって、自分の過去を振り返った時に「音楽」も「小説」も「ゲーム」も(哲学や映画は違うが)入り口はそこなので。元々音楽自体にさほど興味が無かった俺だが、結局『話のタネ』として売れ線のJ-popを聴くうちに、一部アーティストの良さが判るようになっていったという経緯がありまして。で、聴き込めば聴き込むほど、結局「今一番売れている」人気アーティストやら作家からは離れていかざるを得なかった気がする。それでも90年代J-popは輝いてたしハリウッド映画は馬鹿に出来ないが。

ある意味、それは当たり前なんですがね。
個々の作品自体は(出会ってしまうまで)不要不急のものなんだし。で、気付かされたのは、テレビにもそれが言えるって事だ。ケータイ族、パソコン族とはよく言うが、日本人の文化作品への接し方が“ネットに浸りながらマイナーだったり古かったりする作品の情報をアーカイヴ的に参照しながら探し出してそれに浸る”タイプと、“ケータイでの交友関係を重点に置いてテレビや雑誌を情報源に作品を見る”タイプに二分されつつあるのは、日ごろ確かに感じる。後者において“作品”は、まず日常会話のネタとしての側面に重点が置かれているのは言うまでもないけれど、だから多分作家性(のようなもの)の核にあるのは、恋愛の価値の補強とか、好みのタレントとか、ぽっと出ては消えていく(爆笑オンエアバトル以降流行の)新人お笑い芸人、つまりゴールデンの番組に代表される価値基準で十分で、テレビに求められる即時的(かつ下世話)な“楽しさ”の基準が、そのまま他の分野にも適用される。即時的に楽しくない、魅力的な異性が出てこない、笑いの要素がない、広く知られていないものは“わかんないしつまらない”で終わり。

(それだけならまだしも、そのテレビ的なメタメッセージ〔評価基準〕が普遍的なものだと信じ込んだ一部の阿呆、自分達が一般庶民だと信じ込んでいる精神貧困層〔同じ人間によって作り出されるものとはいえ社会環境の一端である事は確かで、そこから形成される一般性に準じる人が多数いるのもある意味では自然なのだが〕が偉そうにふるまってオタク叩きをやり始める、いや叩かれて当然の奴も居るからそれだけならまだ良いが、アポロ計画が捏造だとかB型はルーズだとか信じ込んでたり、羞恥心とかいう自分達自身微塵も持ち合わせてねーだろとツッコミ入れたくなるグループ名を冠した見世物小屋的なショーで自分よりも馬鹿な奴を嗤って安堵感に浸ったりとか、残念ながら確実に多数いるその手の人種には本気で哀れみを感じる時がある、言い過ぎたねごめんなさい、抹消記号引きます)

……まあ、わかんないしつまらないものはそこでオシマイ、メディアなんて話のネタで十分、というだけの人が圧倒的多数なのが現実だし、正直それは自然な流れだとは思う。恐らくテレビって、“日常”を演出する小道具、ツールとしては、「学校」「職場」の次ぐらいに重要なものなんじゃないかと思うわけで。

朝起きて夜眠る、月火水木金と学び働き、週末に休む、という生活のリズムに密着した存在、だったんじゃないでしょうか、テレビって昔は。自分の家族は次女を除いてあまりテレビを見ない奴ばかりなので経験から推測するのは難しいけれど。

言い換えるのならば、テレビと、「公共性」「一般性」は密着しつつ相互に補強し合ってきたのだ、日常を媒介として。まあ「テレビは国民形成のメディアだ」というのは昔から言われていた事だけれど、それは全くその通りで、「一般的日本人」の形成において学校の次に大きな役割を担っていたのは事実じゃないだろうか。

で、メディアの頂点にあったが故に、その影響力を問われ続けたテレビは、徐々に徐々に、新興のメディアにお株を奪われはじめる。

「ゲーム脳の恐怖」というキーワードも記憶に新しいけど、ゲーム叩きやパソコン叩きって、その主役だった主婦層のメディア観自体がテレビというメディアによって形成されている事で説明がつくような気がする。どちらもテレビと競合するのが一見してわかる新興メディアだ。そして、「一人でモニターと向き合う」イメージが付きまとう。リビングの一家団欒からメンバーを引き離す恐るべき装置に見えなくもない。そして実際それはさほど間違ってはいない。任天堂Wiiの広告戦略の狙いは間違いなく、「リビングに一家が集まる理由には(TV番組じゃなくて)TVゲームでもいいはずだ」というメッセージだし、それは同時に、誰もいなくなったリビングでテレビだけが喋っている現実を刷新できるかもという幻想を喚起させる狙いがあるはずだ。ネットとPCも、たとえばちょっと前に新聞が広めた「ネット右翼」とか(確かにそれっぽいのはいるんだけど)色々と叩かれていた。最近はTV局もネットの興隆を汲んで、バラエティ番組内などでyoutubeや2ちゃんねるの投稿をイロモノ的には取り上げるけれど。

そこでホリエモンが登場して、ライブドアのフジサンケイグループに対する敵対的買収劇が繰り広げられる中で、「ネットと放送の融合」が謳われ始めた。

著者が主張しているのは、その謳い文句自体に多分に問題がある、というか、そもそも放送と通信は融合した時点で圧倒的に通信の側が優位に立つことになる(それ故に、著者の言う次世代のTVであるべきアーカイヴ的視聴においては、“通信的なコンタクトのシステム”を取り込んだ、これまでの空間的拡張と共時的編成という2面性から、時間的にも拡張し、同時に高度に相対化されうる新しい放送となるべきだという)、という感じだろうか。ネットTVってGYAOとか以前にもあったしね。

通信優位のメディア環境において、いわゆる『公共性』は危機に曝されるんでしょうか?

当時のおぼろげな記憶をたどってみると(そもそも自分にはさほど興味が沸かないネタだった気がするけど)、NHKにしろフジにしろ、なにか便利な魔法の言葉みたいに公共性、公共性、とか唱えていた気がするんで、著者のこの部分の主張は恐ろしいほど説得力があった。彼等の言う公共性とはつまり、システム理論の語に直すならマスコミュニケーションによるオートポイエシス的再生産に大きく依存して構築・維持されてきた公共性でしかなくて、戦後日本におけるいわゆる公共の秩序は“テレビ的な公共性”と重なり合っているんだと。要するに“公共性”のあり方、内容そのものを定めてきた権力集団のトップが“公共性の危機”を訴えていたわけだ。

そこで思うのは、(当時の感覚を今言葉に出来たのは著者のおかげだと思いますが)

「公共性のありかたってたったの一種類しかないんスか?」

あの騒動を、メディアにおける守旧派対革新派の対決と見なすのは、一面的にはさほど間違っていないと思う。まあ電通が味方してくれなかったから(堀江は見方になってくれると信じてたらしい)あっけなくライブドア側の敗北で幕引きしたけど、そして別にライブドアに経営権を握って欲しいともあんまり感じなかったけれども。
ただ、視聴者の側がそれについて無自覚なままに「公共性」を演出、担保してきた媒体としてのテレビは、その事実自体を視聴者にあらためて問い直させる事になったという意味で、結構“痛い”事件だったんじゃあないだろうか。

3,公共性とおらが村編

許されうる公共性のあり方はたった1種類だけなのか?
一見メディアとは何の関係も無さそうな語だけれど、実はそうじゃないです。昔から思ってはいたんだけれど、自分等って、日本人だからなのか否かは知らないが、「公共性」を自ら生み出すものとは普通考えないっすよね。何故そう思うのかといわれたらなんとも答えにくいのだが(55年体制ならぬ40年体制、とかそういうネタになっちゃうが)。
あるいはまだ若年だからなのかもしれないが、なにか、「公共の秩序」「日常を担保するもの」とは、“自治を通して自分達で形成していくもの”ではなく、“お上が与えてくれるもの”“天から降ってくるもの”とか考えてそうな奴等が一杯いる気がするんだが、少なくとも、短い人生経験の中でも、今の自分の人間関係をざっと見渡してみても。
もっと具体的に言うと、これまでの学校生活の中で、“自治”と呼べるような活動が顕著だったのは、生徒会とか1クラスの枠組みなんかよりも、いわゆる不良(ぶった)グループやローカルな友人関係の中だったように思う。下らないかもしれないが、自分が優等生な良い子ちゃんに対していつも感じる違和感というのは、“自分のエゴを押さえ込むこと”が公共性に帰依すると信じているところだったりする。そのくせ、(あるいはだからこそ)“先生の言う事”“親の言う事”“学校が決めたこと”を参照しては権威を付与して、それがリアルな人間関係の中で実際に力を持つと信じ込んでいる浅はかさ……全然関係ない話ですねこれ。

ただ、ネット上の、特に匿名でのコミュニティに顕著に現れているのは、部分否定よりも全面否定、部分肯定よりも全肯定、という態度。ヘーゲルがスピノザを引用して同じ事を言ったとか関係なしに、ちょっと考えれば部分否定と全否定が根本から全く異質な物だってことぐらいわかる筈なのだけれど。

…いや、判っているからこそ、ニコ動では全肯定が顕著、2ちゃんでは全否定が顕著なんだと思う。上(ニコ動編)にもあるけれど、ヘヴィーなネットユーザーであればあるほど、ネットに求めるものは情報よりもコミュニケーションだ(あるいは逆かもしれない、リアルでコミュニケーションにおける充足が図られない人がネットに入り浸るからこそ、という)。ネットに対して、「仲間内の和やかな感覚」を求めるあまり、いつのまにかそれが「必要不可欠なもの」となってしまう。するとどうなるか。ネットの「身内」もリアルの「身内」も、社会学的にはテンニースによる人格的(本質的)結合、いわゆるゲマインシャフトに分類されるけれど、見田宗介さんによると、そのゲマインシャフトも、即時的(自由な意思によって選ばれない)なものと対自的(自由な意思によって選ばれる)なものの二つに分類される。「ネットにしか居場所がない」というような人物にとって、ネットによるコミュニケーションは(当初は自分で選択したものだとしても)居場所を選べない、そこにしかない“最後の”共同体なんじゃないか。

実はこの、即時的(自分で選べない)でありつつ共同態(ゲマインシャフト)であるものって、全く同じように分類されるものがもう一つあって、それは近代化以前の(あるいは以後もだけど)村落共同体、“おらが村”なんですが。いわゆる“パトリ”のことですが。そういう場所は、ニーチェが「故郷喪失」と読んだように近代化の課程で切り取られ圧縮され、最終的には“核家族”に行き着いたはずで、これもまた上に(日常編)書いたように、そうした“気を許せる共同体”としての家族観の維持に、既存のTVは(交換論的に)大きく貢献してきたように思う。ところが現代に入って、もはや家族すら気を許せる“共同体”ではなくなる人間が大量発生して、その逃げ道として最後に選ばれたのが“ネットの中のコミュニティ(共同体)”と、ケータイに何人分のアドレスが入っているか(“トモダチ”が何人居るのか)というローカルな親密圏的価値基準だったんじゃあないのか。だからこそ、前近代的な「同調圧力」が、みんなと同じ事、同じ反応をする事、共通の前提を持つ事が時として強要される。

別にサイトそのものを叩くわけでもないけれど、そういうメカニズムでこれらのサイト(あとmixiのケータイ族とかプロフの中高生とか)に入り浸っている人は、思いの外多いように感じる。こういう場所で形成される、読むべき「空気」というのは、公共性とは程遠いものだ。自ら創ろうとするものではなく、必要に駆られているだけという点において。

思うんだけれど、こういう人種がネットを既存のマスメディアに叩かせるエクスキューズと化しているのは事実だし、しゃーないんだが…だがもし、こういう人々がネットにおける少数派になった時に、つまり、ネットとは別の場所に(あるいは双方に)「気を許せる共同体」を見出して、ネットにおける言葉の使い道や情報の取捨選択をあくまで手段的な価値として認めたときに、ひょっとしたら本当に、ハーバーマスの言ったような成熟したネットの“論壇”なり公共圏“オフェントリヒカイト”みたいなものが出現するんじゃないのか。そういう可能性はあると思う。

というか、もうそういう兆候は見えてる気がするんですよ。

馴れ合いだけを求める人はどんどん文章系のサイトから撤退し始めてもっと楽しく前向きな場所に移り住んで(そしてまた入り浸って)いるだろうし、佐々木俊尚が「ブログ論壇の誕生」なんて言っているけれど、SNSや動画系サイトの興隆と同時に、オープンな文章系のサイトはどんどんラディカルな方向に向かっているように思う。はてなやwikiにはsnsより期待してる。

大体、この種のマス(プロダクション対応)化人間の再生産はTVによってもたらされたものでもあるんじゃないのか。
そういう文脈で言うと、大規模(マス)メディアに触れた後にネットを利用する事によって、“ネットが大規模大衆化(マス化)”するという現象が起こる責任は、そもそも昔から存在するメディアが負ってるんじゃないですかと言ってみたくなる。戦前からまるで変わり映えしないなと。


4,ハーバーマス-ルーマン論争編

二クラス・ルーマンは一般システム理論を借用して社会システム理論を提唱した学者で、大まかに言うと、社会の総体は(生き物の肉体が、結局各細胞がアミノ酸等の物質をやり取りするだけの塊であるように)コミュニケーションによって再生産されるだけの「流れが集まった形」でしかないものだという説を唱えた。一方ユルゲン・ハーバーマスは、「そもそも社会とはこうなっている」「社会はこうあるのが正しい」という既成の考え方にNOを唱え、常にそれらを告発しテイコウとする批判理論を用いた。二人の学者が衝突して激論になり、一連の論争は“ハーバーマス-ルーマン論争”として知られている。

…それがどうした、と言われるかもしれないが、これをネットに置き換えてみること面白い。

インターネットサイトは、特定の人種が集まって馴れ合うだけの「コミュニティ」なのか、それとも、討論によってある種の事実をあぶり出し見定めていける「論壇」なのか、という問題になるのだ。

この論争は一応はルーマンが優勢で決着したと言われているが、学の浅い自分が言うのもなんだけれど、微妙に誤解があるような気がする。宮台の“パッケージ論”ではないけれども、両者共に対話を重点に置いた理論構築をしていて、どちらがディベートに勝つかというような“正しさゲーム”の次元では確かにルーマンが優位には居るんだけれど、“何故”そのゲームをやるのか、という、動機付けのレベルにおいて、ルーマンがハバーマスとの“対話”を行ったという次元で見ればハーバーマスが優勢なのでは、という。

システム理論は同時に理論(のための)システムでもあるのでは、という。(つまり、“全てはシステムに過ぎない”とする考え方のルーマン側が議論に勝利を収めたと仮定すると、“対話に特別の意味が無い”っつう事になってしまって、その“勝利”自体も“無意味な勝利”である事が不可避なのだ。この論争の面白さはここにあるがこの記事とはあまり関係ない)

ともあれ、そういう見方が出来るほどに、確かに“社会”として回っている部分がネットにはあるんじゃないかと思う。

で、それが現実社会に新しい真の公共性をもたらせるのかといえばそうは成らない。(ソシオメソドロジーじゃないが)ネットの混沌とした広大な文章の海から、“何を共有するのか”という認識の基盤となる、一歩進んだ、“ネットの空気を汲み上げた”権威が必用とされるからで。自民党が麻生を担ぎ出す理由でもあったとは思うんだけれど。

5,麻生叩きとTV編

ここであんまり政治ネタに首つっこみたくないからTVとネットにネタを絞りますが。

現首相の麻生太朗さんが“ネットの空気を汲み上げている”かというと全然全くそんな事はないのだが。にも拘らずネットで彼を支持する声が非常に大きいのは、そういう期待の空気が潜在的にあるからで。“自分達の主張を大規模メディアで主張してくれる代理人”を常に求め、それっぽい人を翼賛する体質が昔からあるからで。これは小泉政権と安倍さんにも言い得るけれど、“保守ぶった”物言いでとりあえず選挙に勝て、という具合にいいように利用されてると言えなくもない。

で、その与党をまたTVが叩く。
例によって本気でどうでもいい字の読み間違いとか給付金を受け取るか否かというネタで。ネットの連中がそれをまた叩く。

こんな構図じゃあ、ネットと既存のメディアとの対立が政治に体よく利用されているんじゃないかと勘ぐってしまうんですが。

まあ何れにせよ、ここで一番問題があるのはTVの体質のほうだと思う。

ワイドショーなんか見ていると、茶化しやあざけりが過剰に含まれているんだよね、報道の中に。恐らく、それは上で言ったように、“日常性”を担保するシステムとしてのTVの役割から派生したものだろうと思う。「また政治家がしょーもないこといってるよww」てな具合に笑い話の種としての付加価値が求められるのだ。本来“政治”のレベルの議論は“日常性”に回収されるようなもんじゃあないと思うんですが。「マスコミの定義は、政治家と国民との相互理解を妨げるものだ」ってアメリカのSF作家が言ってたのを思い出す。今のTVに、公共性やジャーナリズムを語る価値があるんだろうか。

確かに良質なドキュメンタリーは今でも沢山作られているし、事件報道や取材なんて大規模な組織でなければ不可能だ。個人では物理的に不可能な情報収集能力と取材力分析力を持っているからこそ、そこに注目が集まり、報道機関としての機能を果たす、そこまではいい。そこまでしかやらないのが通信社だ。
だけど、新聞もそうだが特にTVは、そこから先に全く異質な権力がいくつも介在してくる。その点が一番問題なんじゃないでしょうか。
“公共性”を築き上げる事もまた、その種の権力(あるいは圧力)の一つだ。
殆どの人は、ニュースをそれ単体では受け取れないし読み取れない。それ故に、必要とされる解説、そしてその量の違いによるニュース毎の扱いの差が生まれ、そこが既存のメディアと、ネット上の言論が対立し相互に叩き合う場面だ。“情報をどう受け取るべきか”というメタデータの部分が全然違ってくるために。

だけど、月並みな意見ではあるけれど、ネットの意見は常に批判に曝され、広く公開されているのに対し、TVは一方通行で限られた情報しか流せない。TVの報道はそれがネットに流された瞬間、一つのスレッド、トピックスとして、その他大勢の無尽蔵にあるスレッドやテーマと同列にかつ並列的に扱われてしまう。その瞬間に、絶対的な意味で、今のTVの主張の弱さ、無防備さ、能天気さが明確に炙り出されてくる。そして人々が「テレビって適当だな、役に立たんな」と考え始める。


でも、TVは必要だ。
今すぐ消え去ってしまうのは超マズイ。
あのディスプレイが必要だと言っているんじゃなくて、社会的基盤として、大規模組織をバックグラウンドに持つものとしてTVが必要だってことだ。

……何故かって、だって、「日常」は確かに必要なものだと思うし、社会全体をカバーする共通認識のプラットフォームが絶対に必要だと思うからですよ。
で、ケータイ族パソコン族だとかオタクかDQNかといった具合に分断されっぱなしの日本人の文化価値の帰属先をもう一度新しく一元化できるメディアがあったらなと思うからですよ。

6,必要とされるテレビ編

動画サイトで一番面白いコンテンツってやっぱりまだアップロードされたTV番組なんですよ。アニメやMADばっか見ている人だってそれが生み出されるシステムを考慮すればTVに恩恵を受けていることに気がつくはずだ。まあ一番面白いってのも俺の基準だけど。

羞恥心の最終ライブで涙流しながらインタヴュー受けて、「たくさん励まされました」と正直に語る人を「馬鹿だな」とか叩く気には全然なれないんだよね。

ただ、そういった一部の限定された人間にしか、今のTVは役割を果たせないし、恐るべき狭さを誇るギョーカイの中から社会全体をカバーできる公共性を提示するなんて端から不可能に近いんだ。今の体質、組織形態のままでは、いずれ第一級のメディアとしてのテレビは終わり、“静寂に耐えられんからちょっと点けておく”といった程度の価値しか求められないものに成り下がるのは目に見えている。というか俺の身の回りでは半分以上の人がそうなりつつある。そうなったら最後で、アイドルの学芸会みたいな中身のないドラマ流してみたりその辺の馬鹿が(それでも精一杯無理して)馬鹿騒ぎするさまを延々垂れ流したり、しまいには熱帯魚の水槽とか魚眼レンズで撮った子犬の顔なんかを懐メロに乗せて適当に一日中放映し続けながらやがて消えていくのがTVの未来展望だ。

そうなって欲しくないと思う。
というのは著者の主張でもあるし。

この本の(ようやく本の話題ですが)終盤に展開される“アーカイヴ的視聴”というのがどんな構想なのか、ちょっと漠然としすぎていて掴みにくい部分があるのだけれど、たとえば上記したようなネット上のTV番組コンテンツを思い浮かべてみた時に、“テレビのチャンネル”と重なり符合する部分は何処なのかという問題となる。多分、それは単体の動画ファイルそれ自体ではなくて、ニコニコとかYOUTUBEとかVEOHだとかDailymotionなどといった“サイトの枠組み”になるだろう。ちょうどNHKの終戦60周年記念サイトとか、最近始まったCNNの動画アーカイヴとかみたいな。

そこで、過去の放送を蓄積しつつ、その歴史性を同時に参照可能になった時に本当の公共性の出現が期待できるのだという。

“歴史性を参照する”

丸山梶尾が、「日本には思想史がない」と言い、宮台真司が「忘却癖」「ネタがベタに」と読んだものは、確かにその通りなんじゃないか。
過去にどういう意図で始まったかをすっかり忘却して、「それがあって当たり前だ」と思い込んでしまう癖。
特に安保とか安保とか安保とか。…いや、“ネットの歩んで来た歴史”すらそういうネタには滅多に出会わないし、どういうルートを経過して今があるのかを誰も知ろうとしないしね。自分がネットに繋ぎ始めたころは、パソコン通信時代のニフティサーブ系の文化が結構根強く残っていて、それがどういった変遷をたどって今の状況があるのか、なんとなくは把握しているつもりなんだけれど。

もしTVがネットの言論を汲み上げてより強固で堅牢なジャーナリズムを得たとしたら、より多くの人間が納得できて参加可能な公共性を提示可能になったら。
さらにそこで、著者の言うアーカイヴ的視聴を通して、多くの人が(単に懐かしむんじゃなく)歴史性を参照する事を学べるようになったらば、本気で世の中変わると思う。
ダイナミックかつロジカルにラディカルに、何よりもっと自由(でありつつその基盤について自覚的)に。

アクセス率も視聴率も資本の産物である以上物象化は免れないんだが、それを拒否するんじゃなく、その先を目指すことで公共性なるものが見えてくるんじゃないかと思います。グーグルよりアフィリエイトのほうが健全だ、っていう見方もアリだと思います。

7,本の感想

申し訳ないが殆ど自分の意見の噴出で終ってしまいそうなんだけれど、この本の何が凄いかって、普段殆ど本の感想なんか書かない自分がついアツくなってこんな長文書いてしまう点ですよ。かいつまんで「テレビは要らなくない」というのが本書の内容なんですが、問題提起の間口の広さには驚かされるし、今まで無自覚で受身でしかなかったテレビの価値をもう一度振り返らせてくれる説得力を持った良書だと思います。

なんか凄い疲労した気分だし量のわりに内容が薄いような気もするがこんな長い記事二度と書かない予感で一杯だからここまで読み終えた奴(そんな方がもしいらっしゃいましたら)はさらに買って読め。

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