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(iPadが欲しくてたまらない。西暦の年号の桁数故にだろうか。正しく情報が行き渡れば鬼のように売れるでしょう、PC持っててもゲームとネットとOfficeぐらいしか使わない奴何人居るんだって考えると。)

レポートの転載です。
ブログ持ってる学生はもっとそういうことしたらいいと思うよ。
アウトプットのポートが無限に存在する時代なんだから、一種労力の集約にもなるしね。

手抜いてるのが、わかる人にはありありと分かるこんなブツでもアップする俺みたいな奴がいるんだし。
相対化され集約される情報空間の機能から、価値をもぎ取るために今後もノイズを増大させていきたいと、僕はそう思います。


本文↓→

 

 音楽ソフトの主要な販売用媒体としての光学メディアであるCD(コンパクトディスク)は、98年をピークに以降売り上げが減少の一途を辿っている。それに代わりここ数年、携帯電話やiTunes storeといったPCソフトを媒介とするデータのみの販売による売上高が前年比10%近くの伸びを毎年示しており、商品としての音楽の形態は、CDという(手に持って確かめられる)パッケージメディアから、(目に見えないデータのみの)ダウンロードへと移行しつつある。この事実に関しては、これまでインターネットの普及とともに情報化の浸透、少子化の影響などと絡め語られてきたが、ここではまず文化的な要因としての音楽という視点から、その背景、原因とともに、結果としてもたらされる日本人の文化観と価値観へのインパクトを交えて述べたい。

音楽ソフトの媒体として初めてCDを使用したものが一般販売されたのは1982年で、3年後の1985年にはすでに売り上げでレコードを超えている。このレコードからCDへの移行に関して、あるいは録音媒体としてのカセットテープやMD(ミニディスク)に関しても、メディアの移行という意味においては文化的インパクトや商品価値の変貌という側面をある程度は持ちうるが、文化ないし社会的な要因としては、その後に起こるダウンロード台頭という現象の方がより重大な変化であると捉えられる。なぜならこのダウンロードビジネスにおいて商品として流通するものは、CDやレコードのような一切の物的形態を持たず、手に取る事も出来ない、データとしての音楽であるためだ。実際のところ音楽そのものも色や形を持ってはいないが、マスプロダクションとしての音楽産業は、それら音楽そのものを記録した、形を持った物質であるとある媒体(メディア)を商品として流通させることで、市場を形成する事に成功してきた。音楽を含む、この一般にソフトウェア産業と呼ばれるビジネスの構造は貨幣にも似ているが、異質な点は交換価値としての(データのない、空の)メディアに(中身の音楽という)消費価値が同時に添付されている点であり、これについては後述する。ソフトウェア産業の中でも取り分け音楽に注目する必要がある理由はいくつかあり、先ず、あらゆる(エンターテイメント)ソフトウェア産業の中でメディア界の先端を進んでいると考えられる点がその一つとなる。具体的には、例えばアナログからデジタルへの、つまりレコードやカセットないしビデオテープといった磁気メディアから(CDやDVD、BD等)光学ディスクへの移行、据え置き型再生装置の家庭への普及、そこから(ウォークマン、iPod等)ポータブルデバイスへの移行、個人での複製が可能となる時期、等のいずれにおいても、映画などの動画、ゲームソフト等のインタラクティブコンテンツに先んじて達成しているという例がある。それ以外には、文章表現を除くあらゆる娯楽の中で情報量において最もコンパクトであり、音楽それ自体が様式による1つのミニマムな価値だが、またそれ故にマージナルな文化的要素を非常に多く持っている点、ビジネスとして成立させるために多くの同様な周辺的マーケティング、仕掛けが必要とされる点が挙げられる。社会と音楽との関連について述べる時、最も興味深い点は2つあり、1つは本来非言語的なコミュニケーションの側面を強く持ちながら、歌詞を持つ言語的な音楽が、現代において消費文化の主流である点、もう1つは娯楽産業のマスプロダクション化以前からの純粋な文化的項目であるにも関わらず、現代社会においてはなお大量消費される産業でもあるという点だ。ここではこれらを踏まえた上で、いくつかの社会科学的モデルを参考にしながら音楽を通じて現代日本社会の変遷を探って行きたい。一口に音楽といっても、さらに細かなカテゴライズのうえでは、日本固有のジャンルともいうべき演歌、アメリカ文化の媒介者としてのジャズ、ハイカルチャーとしてのクラシックと現代音楽、カウンターカルチャーからポップ・ミュージックへと需要形態を変化させてきたロックとヒップホップ、クラブ/ハウスミュージックとしてのテクノやトランス、実験/前衛音楽という側面の強いもの等多種多様ではあるが、ここではより普遍的に社会との関連が強いCD販売を通じたポピュラー音楽に焦点を絞って考える。

社会、とりわけ戦後日本社会と音楽との密接な関わりは、戦前の、学校教育における童謡、近代化政策の一部であり、当時はそれと未区分であった西洋化の象徴としての側面、ラジオの普及や戦中における軍歌の広まり等の国民統合ないし(近代的)国民の形成手段という流れを受け継ぎ、戦後は急速に普及した重要なマスメディアであるテレビを通じて行われたと考えられる。コミュニケーションが社会を再生産する手段であると考えた場合、マスコミは急速に均質で統一された(近代的)社会を生み出す強力な情報源だ。放送を聴覚的に彩る飾りとしてではなく、音楽自体を中心に扱ったものは無数に企画され、「MUSIC FAIR」や「ミュージックステーション」といった代表的な高視聴率番組がある。NHK紅白歌合戦は1953年に初めてテレビ放送され、最高視聴率81%(1963年、関東地区)という記録を持つ長寿の特別番組であり、毎年の流行歌やヒットチャート上位の曲が大晦日に歌われる。映画・ドラマ・アニメの主題歌、劇中曲に限らず、ニュース番組、バラエティといったジャンルの番組にも数限りなく音楽は使われているが、これら音楽を中心に扱った番組はとりわけ興味深い二面性を持っており、それ自体を商品としたプロモーションと、番組のメインコンテンツという面を音楽が兼ね備えている点がそれだ。ともあれこうした二面性は他の番組にも見られ、テレビと音楽は協調しつつ、国民を文化的にもマーケットとしても統合し均質化する、一方通行のマスコミュニケーションを長期に渡って続けてきた。質のうえで(ある程度)優れたものをプロモーションの対象としてマーケットに組み入れるか、最初から意図して積極的なコマーシャルを行うかの違いはあるものの、比較的少数の種類の楽曲で大衆のメディア接触時間を埋める事によって、ヒットソング、流行歌が作り出され、日常会話のトピックへ躍り出る事によってそれらの楽曲はさらにコミュニケーションツールへと発展する。カラオケがビジネスとして成立する基盤がここに完成し、音楽を取り囲む経済規模は膨れ上がって、アーティストの写真集やライブビデオ等の派生商品が生まれた。こうした徐々に揺らぎつつも現在進行形で続いている一連の現象は、特に米国で生まれた、(TV)コマーシャルを通じた大衆消費文化の一端と位置付けられるが、大衆消費文化そのものの際立った特徴に注目すると次のように考えられる。現代の大衆文化=ポップカルチャーとは(労働力の集約は無いものの)大量生産・大量消費を前提とした言わばフォーディズムの文化版であり、純粋に古典的な意味での文化とは大きく異なっている。これには文化と文明という二項対立を、さらに経済学のモデルに当てはめた仮定を行ってみると解りやすい。文化を生産と消費の両面に共通する、または両者を媒介する価値の様式と捉え、文明と呼ばれるものは生産から消費までを物理的に媒介するインフラ、生産の結果(成果)と流通とを担う流動性、経済システムそのものと捉える。前述したソフトウェア産業と貨幣との類似性を補足すると、ソフトウェアにおいても貨幣においても、量産コスト自体はその市場価格に大きなウェイトを占めず、交換されるものは(形を持たない)その本質である、という点だ。ソフトウェアの過剰生産は車の過剰生産とは異なる意味を持ち、価格設定もまた車のそれとはまったく異なる部分を持つ。貨幣における信用創造に当てはまるものはメディアに記録されている情報自体であり、中身の(音楽等の)情報を欠いたメディアは同時に付加された交換価値をも失う。そうした前提を基に先の文明と文化の、つまり消費・生産価値と流通・交換価値との対比を考えてみた時、非常に興味深い現象が見えてくる。まず、アメリカ発のマス・カルチャーという名の「いわゆる消費文化」は、生産と流通の必要に応じた、言わば文明の発展・建設の為のパーツという側面を少なからず持つと考えられる点が挙げられる。文化が企業活動を介し、そこに組み込まれた時、必然的に利潤の追求と経済規模の拡大への要求が発生するためだ。これを前提として戦後の日本においての、高度経済成長の流れに乗りつつ、ひたすらマス・プロダクション化を追求した結果としての、国民的流行歌、ヒットソングの存在という仮定に立脚し、翻って98年を境とした以降のCD売上の下降という音楽業界の戦後史を俯瞰してみる。当初から労働集約型の産業ではないコンテンツビジネスは、ポスト・フォーディズム的側面を早期に持ちえた事が考えられるが、結果的にはアンダーグラウンド的なサブカルチャー、カウンターカルチャーの領域を除いて、大衆文化としての音楽は少数のタイトル、アーティストが独占的に売り上げを伸ばす市場となっていった。しかし、音楽市場の利益のほとんどのパイを占めていたCDにとって最も重要かつ注目すべき変化は、この後コンピュータとインターネットの普及によってもたらされる。

 まず、CD-ROMの登場によって、音楽を含めたCD内の情報をパソコンのハードディスクに劣化の一切ない完全な形でコピーする事が一般消費者にも可能となり、さらに書き込みの可能なCD-RやCD-RW等の個人向け販売が始まる。iPodなどのMP3プレイヤーの普及によって、それら(CDから抜き出されデータベース化された)音楽を大量に携帯する事が可能となり、この時点ですでに、個人向けに特定のレーベルから販売される音楽CDは、その内容する情報に価値の主体を見られ、消費者の音楽に対する金銭的、価値体系的な観念は大きく変貌した。それ以前には、たとえて言うならば小判や小銭それ自体が価値を持つと考えていた江戸の庶民のように、多くの消費者はパッケージ化されたCDという光学ディスクデバイス、それら個々の物質としての商品と、その中身の情報とを(価値のうえで)分けて考える事は殆ど無かったと考えられるが、その中身だけを「取り出して扱える」事が、PCの普及と高性能化によって証明され、消費者心理に大きなインパクトをもたらした。さらに重大なのは、インターネットの普及と高速化に伴い、ファイルとして一元化されたそれらCDの内容が、ごく簡単に、さも当り前のようにネットを介し流通するという時代が到来した事にある。上記の定義にしたがえばインフラとしてのインターネットは文明に帰属する事になるが、そこで行われる集約的な、双方向性を持ったマスコミュニケーションは文化として定義可能だ。今年(‘10年)施行された法令で無許可かつ作為の著作物ダウンロードは違法と明記されたが、産業としての文化の保護にとってあまりに遅かった。テレビ時代までのメディア接触の一方通行性を破り、双方向での大規模コミュニケーションが行われるネット上では、それら著作物は「だれでも発表可能であり、発信可能」だ。よっていわゆるコンテンツの流通には、とりわけ個人製作の最も容易な音楽という項目に関しては、もはや産業と経済を媒介する必要がない事が、現在証明されつつあるのではないか。著作権という概念の廃止を試みた党が大規模に有権者の支持を得る国が現れるなど、世界的にも大きくこの現象は進行しつつある。iPodで知られるアップルのiTunesというサービスは、この傾向を受けてダウンロード専売、つまり情報単体での低価格販売路線に踏み切ったものだと言われ、また、現在日本におけるこのタイプのビジネスでは携帯電話へのダウンロード販売が売り上げの9割を占めている。音楽産業全体の経済規模は縮小傾向にはないものの、CDの売り上げが現在も縮小し続けている理由には、これらの要因が考えられる。

文明と文化の均衡と対立、協調というモデルに従ってこの変遷を分析してみると、前述したようにマスプロダクションとしての音楽とは、「文明の必要に応じた文化」であり、文明に従って決定された生産と消費の様式となるが、その後の情報化された音楽はさらに「文化の必要に応じた文明」の発生へと収斂する可能性を秘めている。レコードの現在に注目する事で、CDという物的媒介の将来を予測すると、次のようになる。レコードは情報の媒介能力、保存性という視点からCDに劣り、その本来の存在意義を上記の二つに絞ってみた時、今では一切価値のないメディアという結論に至らなければならない。にも拘らず、大きく規模を縮小しつつもなお、レコードは現在も生産され、流通している。クラブミュージックにおけるスクラッチパフォーマンス、インテリアとしてプレイヤーとともに使用されるケース、その歴史性など様々な付加価値を持つためだが、上記の媒介性と保存性という「文明的」な二つの理由はCD以降のメディアにとって代わられている。この事から、現代におけるレコードは「文明」の必要に応じる事のない、純粋に文化的な価値によって生き延びていると仮定可能だ。これを当てはめると、現在CDは「純粋な文化的価値」を志向する状態にあるといえ、その文化的価値をいくつか予測してみると、先ず手に持って確かめられる最後のパッケージメディアであり音楽形態という意義が見えてくる。所有欲を満たすという効果のみならず、部屋に置かれる事で個人とその生活のパーツとなる、コミュニティ内で現実にあるそれを見せ合い貸し借りする、自ら制作に関わった楽曲のパッケージ化等が考えられるが、それらを含めた上で注目するべき点がある。インターネットは、このコンテンツの流通にとって究極の文明化ともいうべきインフラだが、逆説的には、必ずしもそれ単体で文化的な価値を生み出しえない。インターネットにおける音楽の利用はTV以上に多様ではあるものの、単体の動画ファイルやサイトに付随する付加価値としての側面が依然として強く、たとえて言うならラジオやTVにおける音楽と同様に、やはり広告と消費、情報と価値の境界線が極めて曖昧な状態だ。個人によって広告され、個人によって生産され、経済と産業を媒介することなしにまた個人によって受容されているという音楽の現在は、コンテンツを巡る文化にとって必要なインフラがほぼ完全に整ったことを示唆しており、ある意味では文明にとってのターニングポイントとも言え、個人やコミュニティにとっての価値に重点を置いた、ポストモダニストの言うデータベースを利用したシミュラークル操作風の需要形態に、音楽の在り方が変化しつつある事を示唆している。

 インターネットを介した情報の流通量と速度は、すでに経済と社会の速度を超えている。その速度のうちにある音楽は、そのままでは価値を得にくい。たとえ人間による作業速度を介していたとしても、再生されぬままに右から左へと複製されるコンテンツファイルはネットを構成する情報の一部にすぎず、その価値を受容するためには再生、視聴というプロセスを経る必要があり、さらにそれ以上の価値が見いだされた時に初めて、対価を支払うか否かという選択肢が生まれるからだ。経済システムという(旧来の、なお必要とされる)インフラにとって、これは文化への従属であり、ネットを介して生成される需要の様式に従わなければならない事を意味している。近年のヒットチャートの明確な変化はアニメ系作品、アイドル系作品の上位への台頭だが、他にも、グーグルのいわゆるロングテール論を用いて、それまで目立たなかったマイナーレーベル、インディーズ作品、時間が経ち話題に上らなくなった作品が(CD市場全体の割合の中で)売り上げを伸ばし始めている可能性が考えられる。これらの要因としては、現代では制作者と需要者をダイレクトに繋ぐコミュニケーションが、音楽の価値の源泉としての側面を持つという仮定を基にして推測可能だ。音楽を聴き(強化される事によって)制作者に傾倒し、その対価を支払うという行動は、きわめて様式的で儀礼的な象徴の交換と言えるかもしれない。そうした、音楽を取り巻く一連の動きは、前述した法則に習えば、コンテンツ/文化産業全体の将来像を示唆している。

 

 

 

 

 

 

 

2010.01.29


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