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1985/06/19
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27 2017 / 09
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23 2008 / 12
うわー、やべー(棒読み)

一ヶ月以上更新してな・・・まあ色々ある。

実は別にやベーとも思ってない。

最近、そういうタイミングなのか、ものの考え方が変りつつあるので。

近況を書くとしたら、まあ色々あるとも言えるし色々無いとも言える。

身近でなくなりつつあるものを、つまりは去り行くものを惜しんだって仕方がないので、追っかけたりするような性分ではないのだが、その去り行くものが身近にいたという事実に対しては真摯でありたいし、重きを置こうとも思う。

何言ってんだお前、という話になるだろうが。
つまり今の俺は果てしなく自由な気分なんです。
そういえば、もう上映会という名の締め切りも無い。
スクリーンで上映するには自前の機材かミニシアター借りるだけの予算(案外安い)が要るし、作品を見ていただける機会が減ったのは大変残念です。
が、それもまた一種の自由のように感じてしまうのは、やっぱり俺が多少なりとも締め切りに囚われていたからなんでしょう。

つーわけでDVDに自作の映像を纏めてます。
ついでに気に入っているのをyoutubeとVEOHにアップロードしました。
あと一つアップしたら解説でもつけて此処からリンク張ろうと思います。
 
Img_003.jpg

 





 



 

12月に最後の上映会があると聞いて「絶対まにあわねーだろーな」と思って編集を始めていた作品は案の定間に合わなかったわけですが、逆説的に言えばクオリティのために間に合わせなかったという側面もあります。もともと、この先も時間に余裕が持てる限り映像制作は続けるつもりだったしね。「納期が無きゃ何も完成させられない」とは宮本茂の言葉だが、自分なりに考えてはいます。観に行けなかったのは申し訳ないし残念だが、まあ色々ある。

上で書いたように、最近、ものの考え方が変わりつつあるというか、創作物を、「完成」させる事の定義のようなものが、なんとなく曖昧に、かつ自由になっていて、それは例えブログ記事でもそうなっているみたいなんで、ちょっと今までに無いぐらい長くなった書きかけのレヴューやら感想がデスクトップに散乱している。

小説やらレポートなんかも同様に、むしろ以前よりすらすら筆が進むようになった。
3DCGに関しても動画作品に関しても妙にいろいろアイディアが浮かぶようになったし、それはどうも、パフォーマティヴな言い回しを避けるようになったことに関わりがあるみたいなのだけれど。

…以上。と、いうのが近況というかここ最近の心境でございます。


…ところで、めっきり寒くなりましたね。
この時期北半球の気温が低下するのは天文学的に妥当だが、南半球にも、つまり地球規模で吹き荒れている寒波がありますよね。

円/ドルが0.88って。
プラザ合意かよ。

まあ、カネを運用してカネを生むような一見してインチキ臭いシステムは信用(信仰ともいう)に穴が開くとヒステリックなほどにガタガタになるのかもしれないが、あるいはひょっとしたらここ20年上手く回っていたように見えるシステムこそがヒステリックだったのかもしれないが、何れにせよ、先進国においてはそれが一般庶民にすら大きな恩恵をもたらしていたもは事実で。

景気が後退すると先ず打撃をこうむるのは娯楽産業だろう。
そこまでは別に構わないと思う。必要不可欠もの、文化と呼べるまで根ざした娯楽は必ず残るだろうし、新しい試みが限られてくるのは惜しいけれども、現代は単に金回りの為とか、惰性で続いているような娯楽が多すぎる。

ただ、娯楽に類似した付加価値があふれかえっている時代に、それらが一挙に消えてしまった時の社会的影響は深刻だとは思うけれど。

流動性の過剰に歯止めがかかりつつあるここらで、「価値」があるというのはどういうことなのか、一度見直されて見るのもいいんじゃないでしょうか。

まあ、餓死者が出るような事態になったらそれこそそんなレベルの問題じゃあないが、そこまでの事態にさせるほど『杓子定規』ではないだろう、今の文明社会は。

イチ学部生の身勝手なボヤキでした。
ではまた一ヶ月後。

…いや、実家に戻るとPCなかなか使えないんで。
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28 2008 / 09
合宿の帰りに甲府市の友人宅へ寄り、そのまま3泊したのちに、やり残していた3つの用件を果たすため実家へ戻って更に3泊し大学前のアパートに戻る。
当然ガイダンスは終っている。

・モダンとコンテンポラリーについて
(または便器について)

とても言葉にし切れないお話です。

「デュシャンという冷笑家がいて、彼は公衆トイレの便器を取り外してきて、そのまま“泉”というもっともらしい表題を与え、美術展に出品して展示させた」

そんな話を昔聞いたことがある。
ちょっと調べてみれば枝葉ばかり付けられているのがわかるけれども、マルセル・デュシャンのその振る舞いに、現代美術ってそういうものなんだろうかとすっかり思い込まされていた感がある。

2年ほど前、自分は某4分33秒のアイディアをそのまんまパクって映像作品化、サークル主催の上映会で垂れ流してしてしまったのだけれど、その「上映会」という枠組み、システム、絵画に例えるなら額縁、美術館に例えるなら建物とその空間自体という、“アート”呼ばわりされている諸々の事物を下支えしつつ、強固に固着させているものが、その“額縁”そのものが好きなんですって事を表現したかった、というのが一つあった。

清里現代美術館

ところが、そのサークルの合宿でこの度立ち寄ってまいりましたこの場所で、とある勘違いに気付かされました。ナマでジョン・ケージの書いた譜面(五線の上に文字の羅列とか直線とか曲線とか多角形とか円形とかが滅茶苦茶に書いてある)を見るのはショッキングな体験でした。

芸術ARTとはなんぞや。

フルクサスの“運動”が目指していたものとはなんぞや。

まず結論、というか、この場所を訪れて自分が確信した事。

芸術とは“ものの見方”だ。

少し噛み砕くと、芸術活動というのは、“創作”ではなく“鑑賞”にあるのだと。

まあニーチェじゃないけれども、作品をみる者もまた作品によってみられているのかな、と。芸術を、芸術、その言葉が指し示す枠組みとして捉えなおす時に見えてくる、ある画家やその作品を頂点とした一種のヒエラルキー構造、社会的な立ち居地、その中に押し込められ祀り上げられた“作品”が逆説的に、社会の中にありふれているものそれ自体、たとえば便器とかだった場合、鑑賞者はそれをどう観ればいいのか。

デュシャンは本当にダダイストとして破戒的に振舞っていたのか。

“ものの見方”がアートの本質であるならば、売る者と買う者の関係のような受け手と送り手の構造は再び解体され、その気になれば現実の生活に存在するもの全てが芸術になる。

ところが、現実の生活の中で目にするものに対して、人間はそれが作られた目的や意味を理解しているし、それに沿って生きている。椅子は座るという目的のために存在していて、座らなければ意味が無い。ではそれら“意味”や“目的”を剥脱された形で、モノを目の前に置かれたらどうだろう。座れない椅子、用を足せない便器、どう足掻いても読めない楽譜、“意味”のわからない写真、写真、絵画、絵画、文章。

ところが、実は意味も目的も付与されているのだと思う。

美術館と額縁による、“芸術”という社会的枠組みのシステムに乗る事によって、それらは確かに完成している。逆説的だけれど、意味を剥脱する事に意味があって、目的を持たされぬままに存在する事が目的なのだ。だとすれば、デュシャンやジョン・ケージ、ヨーゼフ・ボイス、フルクサスが目指していたものとは、枠組みの破壊ではあっても、それは芸術の枠組みではなく、芸術を芸術としてその狭いカテゴリーへと押し込めようとする人間の、内なる枠組みなんじゃないだろうか。

そうした活動をアートと呼んだ時、建物や額縁といった本来芸術の外側にある枠組みすら、作品群の一部でしかない事になる。それらにとって真の意味での外側というのは、社会そのもの、現実そのものであり、そして同時に展示されている作品そのものもまた“枠組み”なんじゃないのか。その、観るものに対して働きかけようという動的な力が、“前衛”芸術の“前衛(もとは軍隊の言葉)”たる所以でしょうか。
やっぱりデリダの活動を思い出してしまうなあ。彼が言語に対して感じていた危機を、これらの作家はむしろ奨励するんじゃないかという気がする。

だらだらと書いてしまったが、現代美術の一面としてはこういった見方も出来るのではないでしょうか。という、ただの一例でございます。読んでしまったならぜひ一度訪れてみてください、すごい所です、清里現代美術館。

次はロックマン9についてでも書くと思います。
05 2008 / 08
もう1週間以上も前の事にはなるが、海水浴に行った。
マジで。

近場じゃなく、なぜかこの時期最も混雑が予想される江ノ島海岸(辻堂東海岸)まで車で行った。
半端じゃなく込み合っており駐車場が空くのを待つ間ぼうっとビキニの女の子を眺めていた。

知り合い全員が俺をインドア系だと思っているだろうし実際間違ってはいないが、泳ぐのは好きだ。泳ぐのがと言うより、水に身体をつけてぷかぷかと浮かんでいるだけでも心が安らぐ。

砂浜は焼けた鉄板のようで、打ち寄せる波しぶきを少しづつ浴びながら身体を慣らして海に入り、足がつくギリギリのところを、海水浴場になってる地域の沿岸に沿ってゆっくり泳ぎながら、何時間もゆらゆらと波に揺られ続けていた。

浜から離れるにしたがって水底は徐々に冷たくなり、砂の粒子も大きくなる。
海面の揺れにうまく乗れなかったときには、頭から海水を浴びて口中が塩辛くなる。
水面が揺らぐ時、底のほうで冷たい潮が流れるのを同時に感じる。
海は常に、大きく小さく揺らいでいて、全身でそれを感じながらたっぷりと泳ぎ、浮かんだ後、重力の僅かな違いによろめきながら、波打ち際近くの水の暖かさ、砂のきめ細かさをあらためて踏みしめる。
ただそれだけのことがたまらなく心地良い。

今こうして書き綴ってはいるけれども、あの日あの時の自分は、それについて何も語れないような、あの海が作り出す環境の一部だった。そういう気分になれる場所があることを、長いこと忘れていた気がする。何年ぶりだ海水浴なんて。

そういうわけで今年の夏は十分満喫しました。
まだ暑いね。

もう夏はいいや。はやく終ってくれ、などと思い始めるエゴイストでした。
あとネット繋がりました。
05 2008 / 07

夏場はちょっと神経を研ぎ澄ませてみると、街も田舎も、鼻先をかすめる風に様々なにおいが混じっていますね。7割が“臭い”のほうだけどな。

触覚や嗅覚と記憶とは密接なかかわりがあるのだと思う。ちょうど今ぐらいの初夏の陽光や空気の肌触りの感触、特有のにおいを、もう覚えていないほど昔おなじように体験したんじゃないかと、そんな軽いデジャヴュ体験を最近するようになった。

その事とは関わりがあるんだか無いんだか知らないけれど、先日母方の祖父の13回忌があり、2年ぶりにスーツを身につけて出席した。のだが、お経ってちゃんと聴くとしっかり日本語してるんだなあ、とか、ついに親戚一同に喫煙者であることがバレちまったなあ、祖父の死因は肺ガンだったよなあ、などと不謹慎かつどうでもいいことばかり気になって、坊さんの本尊の住職が最近なくなった話なんかを聞かされても、なぜ読経の直後に無関係な私らにとか、つまり気持ちが締まらないというか、始終浮き足立っていた。もう昔のように、墓前に立ってみても、そこに祖父が“いる”のだという感覚があまり沸いてこない。いや居るのかもしれないけれど、だからといって家族の前で畏まってどうするんだという気もする。自分は70代まで行きぬいた人の死を不幸なものとはあまり感じない。

祖父とは四歳から11歳まで一緒に暮らしていたのだけれど。それ以前までどんな人生を歩んできたのかなんて、たとえば国鉄の本社勤務だったとか、戦時中は軍医だったんだとか、そういう断片的な話でしか知りはしないし、そもそも自分自身で体験した事実も、13年も経ってしまったからには断片的な、追憶によって加工された形でしか残されてはいないだろう。

家族も、世の中も、何より自分自身が、見違えるほど変わってしまったし。
「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著 講談社)という本にもあったけど、人間の体を構成する分子は1年も経てば完全に全く入れ替わってしまうし、マウスのDNAからある細胞の構造情報を除去しても、発生過程で別の細胞がその役割を代替するのだそうな。
また引用するけどグレッグ・イーガンの「順列都市」の方法を用いれば、現代のコンピュータの性能程度でもニューロンのネットワークを模倣する模擬人格が、リアル時間の何万分の一かのスピードならば再現可能だし、そうなってくると、命そのものも一種の情報なんじゃないかと思えてくる。
情報化社会というのは、情報が氾濫し錯綜したり、高度な効率と高速化の達成であると同時に、それまで“情報”に属するものとみなされなかったあらゆる事物が、“情報”として一元化される事なんじゃあなかろうか。この記事の冒頭で“におい”について語ったように。

…まあそんな事はいいとして、最近渋谷の店で衝動買いしてしまったMarc by Marc Jacobsの(ちょっと寝巻きのような)Tシャツがえらく気に入ったので、これ含めた3着ほどで秋まですごそうかと思っている今日この頃です、はい。


水道>電気>ガス>ネット


最近、自分にとっての“使えなくて困るものランキング”が上記のとおりだという事実が明々白々化しつつあったりなんかして、学校からでも人様のPCからでもネットは閲覧できるというのも一因なのかもしれないけれど。

近況でも書き綴ってみましょうか。


1、オンラインゲームにどっぷり

たぶん今1,2を争うほど流行のFPSである某SAの事です。クランにまで加入してしまった。いや、一人で引きこもってるわけじゃない、断じてそうではなくて、そもそも自宅のPCでは性能が足りずまともに動かないので、友人宅で駄弁りながら夜通し遊び続けたり。H市内にあるマンガ喫茶に深夜4,5人で乗り込んできてあーだこーだ騒ぎながらタバコふかしてる集団がいたら、そのうちの一人が俺かもしれない。

2、体調不良

こう、寒いのか暑いのかよく分からなかったり、長い雨がやんでようやく洗濯物の天日干しができるなと思ったらいつの間にか文字通りに雲行きが怪しくなって帰宅時にピンポイントを狙ったかのようにびしょ濡れだったり、むしろ帰宅した自分が傘を持たぬままびしょ濡れだったり。やはり一人暮らしをはじめてから、確実に季節の変わり目に体調が呼応するようになっている。何かが足りないらしい。その欠如した養分がなんだか分からない。分かったら今すぐにでも摂取したい。いろんな栄養素を牛乳と野菜ジュースで補い過ぎだからなあ……

3、もうすぐ23イヤーズオールドマン

では、オールドマンなのか否か。まだヤングマンのはず。だと信じたい。

少なくとも10代の頃イメージしていた“理想の20代”とは程遠いというか、むしろ同じベクトル上の対極にいる気がする。自然に、こっちへこっちへと流されるように自然に。当たり前だけど、時間の経過というのは確立百パーセントで存在する過去の事実が連なり、積み重なってゆくことで。そういう過去の記憶は、現在から未来まで自らの行動の指針となるものであると同時に、動かしがたく自分自身を形作っている価値判断の体系なわけで、よほど強く固めた意志や、二度と味わいたくない感情でもない限りは、これからもきっと、今までと同様の選択を、俺はするんでしょう、と思う。

13 2008 / 05
講師"How was your goldenweek?"

自分"a~......am.......e~.......It was ........soso...very....very....
...................................peaceful."
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