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遂に6月も中旬になってしまった。
もう幾日か経るとこの世に生を受けてから24度目の誕生日を迎えるのですが、もう今年に入ったあたりから人様には「20台半ばです」と語っているので、恐らくあと3年はこのスタンスで通すのでしょう。何故かは知らないのだが、22歳を迎えたらその後26歳までで一区切りが付くと考える傾向が自分にはあるようで。

さて、このひっでえタイトルの記事ですが、とても20台半ばの人間が真顔で語ってはいけないタイトルについてですが、近頃ちょっとそれについて思う所があったので、普段文章化しないような話を綴ってみた。
文章化もしなければ口にも出さないが、実はこんな事ばっかり考えてる変態なんだけどね。

濃厚すぎて脳をやられそうな文章になっていたら幸いである。
ぶっちゃけ、自作の小説からの引用が半分ですが。


この画像

7efd5203.jpeg






どこのレトロSFだよ、低予算映画だよ、と野次れそうでもあるけれど実はCGでも特撮でもなくて、つまり紛れもない現実の光景です。

ISS(国際宇宙ステーション)の建設風景、主にEVAの最中やドッキング前のシャトルから撮影された画像を、それこそユニティとザーリャしか浮かんでな かった頃から自分は集めてきて、「おお、まるでSFの光景みたいだ」と一番感動したのはZ1トラス(写真中央の筒)とカナダアームが取り付けられた時の ミッション写真だった。ところが、コロンビア号の事故を経た計画の遅れや大学生活を送る中でいつの間にやらISSや宇宙開発の話題への興味がすっかり消え かけていた。去年あたりからだろうか、JEM(きぼう)やヨーロッパの実験棟が取り付けられあれよあれよという間に完成が近づいているのを知り、また写真 を蒐集するようになって、この一枚と出会う。
恐らくこのミッションは結構前のもので、高校時代の自分が「おお、SFみたいだ」と暢気に一人盛り上がっていた頃の段階で撮影されたもの、ひょっとしたら そのものズバリZ1トラスにソーラーパネルを設置するミッションなのかもしれないが、最近になって初めて見つけた画像だ。

綺麗だな、とは思った。
中央に人が写っている事でステーションのスケール観が再現されているうえ、写真としての構図もしっかりしている。そしてソーラーパネルのイエロー、宇宙の 虚空という漆黒、それらが映り込む気密モジュールに反射した陽光の紫、なにより夜の側から抜ける地球の表面で青白く煌く昼との境界線が真っ赤に焼けてい る、その色彩の対比が見事だ。

だけれど、現実とは思えないのだ。

たしかにあれから年月が行き過ぎていて、もう地上のほうがとうの昔に、はるかにSFしているというのはあるかも知れない。携帯は誰も気付かないうちにこっ そりテレビ電話出来るようになってるし、年寄りが居間の100インチもあるテレビでリモコン振ってテニスしてるし、水素自動車の試験機が走り回るわ砂漠の ど真ん中に800メートル級のビルが建つわしかもその高層ビルがくるくる回転しますとか、なによりこうしてブログ記事を載せたネットは、いまや普通に使っ ている中高生にだってその威力は周知のものだろう。かつてSFと呼ばれていた“それらしい”SFが廃れるのは、それらがすでにレトロな発想に基づいている 事以上に、リアルワールドがもはやSFの世界に足をつっこんでいるからなのだろう。

それは何処までも、自然なリアリティを持って接してくるように思える。なぜなら、“地上で現在進行形”のSFというのは、結局コミュニケーションへと収斂 する未来だからで。人間対人間、他者がいかに“存在しているか”を指し示し続ける技術は、常に“社会”を再生産、強化し続け、自分等をそこへ巻き込み続け る。
たとえばネットに繋いでいる以上、ROM専だろうがDL専だろうが、人を相手取っているかぎりにおいてそれはコミュニケーションと言える。いかに技術が介 在しようとも、技術が生み出した結果が誰の“モノ”であるとも言い得ない以上、それは社会の“モノ”だし、社会の介在性の結果としてのマテリアルだ。もっ ともリアルなものとは他者で、社会で、そのうえに位置付けられる自分で、たとえば「現実を見ろ」という言葉の真意が何を基盤としているかを問うなら、そう いう事になるのだ。

けれどその社会の外側には、常に世界がある。

コミュニケーション不可能なもの。
対話できない“モノ”。
“私”にとって鏡でありえても、“私”を鏡とはしない“モノ”。

そういうものの総和が世界だ。

それなら、「世界は私のものだ」なんて言い放っても誰も難癖を付けないだろう、というよりも、恐らく子供の頃は、程度の差こそあれ誰もがそう感じていたんじゃないだろうか。
社会関係の中で、たとえば商売と無関係に物理法則がどうの、野生動物がどうのと話す事が少々滑稽なのは、世界に帰属する事物を社会に持ち込んでいるが故に、じゃないだろうか。

この、ここで云う“モノ”というのは、たとえば“所有する権利”のような凶暴さの事じゃない。

たとえば自分にしか触れられない、というより、触れた時意識に何をもたらすか、名前を付ける事で圧縮され切り捨てられてしまうようなものじゃなく、どんな 呼び名を与えたところで結局は名状しがたい、感覚そのものの源泉となる、"現実界(レール)”に根ざしているはずの、そういう"モノ”の事だ。

そして、人間。

あなたの居る社会じゃなく、あなたの世界に人が住んでいるのなら、それは記憶に過ぎないものだけれど、だからこそ、彼等もまたあなたの"モノ”じゃないか。

だったら、あなたは自由なのだ。

償う事も誇る事も、貪る事も穿つ事も、
分かち合う事も消え去る事もありのままに可能じゃないか。

だったら、あなたは現実の他者に、あなたの世界を奪われる事など無いはずだろう。

と、そう思う。

今デスクトップを飾っている上の写真は、自分にとってリアルを覗き込むためのひとつの焦点だ。
他者は果てしなく遠い場所に居て、恐らく二度と、自身の現存在(ダーザイン)とクロスーバーする事はないだろう。その事に恐怖して、その不可能を追い求め て、あなたの世界に居ないはずの他者に、いつの間にか場所を譲ってはいないだろうか。それがあなたを大人に仕立て上げ、老いさせるのだ、と、言いたかった んです。

この世界は俺のモノで、その世界はあなたのものだ。

それをお忘れなく、とか、そういう話でした。
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SF無効化時代?むしろSF永久効果論?
なんて勇気をもらえる記事なんでしょう。

「世界は自分を中心に回ってるとでも思ってるの?」とは、よく相手を責めるときに使われる言い回しだけど、それ聞く度に、世界を客観的に見ている人間が居ることの方が、信じられない気持ちです。
まぁ、こういう台詞を言うシーンと、そういう思考へ繋げるパターンとじゃ、段階が違いすぎるかもしれ。

SFとか、セカイ系とか、それこそスピリチュアル(特定教義に依らない宗教的思想?)とかまで、従来ならぶっ飛んだキワモノ扱いだった観念が、「やって来た感」を伴わぬまま、ホントにいつのまにか、ごく自然に(しかしよくよく見直すと不思議に)浸透しているように感じます。
ていうか、それも世界がそうなったんじゃなく、「自分が」、そういうものを迎え入れたいという状態になったのか。
ニシカワ URL 2009/06/16(Tue)00:35:24 編集
無題
読み返してみたら確かにいかにもセカイ系な内容だったかもしれない。
今の時代本当に何でもかんでも文章が入り込んで言語化してしまうみたいなところがあるからね。
で、書かれた物になったとたんにすぐさま中途半端に政治的になったり企業的になったり、あるいは正当か否かの水掛け論争になったり。テクストがコンテクストより優位になりつつあるから、その裏返しとしてある意味で宗教的な“語りえないもの”への憧憬が募るというか、大事にされるというか、すがり付くぐらいになっちゃう人が増えているのかもしれないのかと。

そういう短絡に巻き込まれて自分を見失わぬように、文章に対してワンステップ踏んで向き合うというのは、ひょっとしたら凄く重要な事ではないかと思うんだよね。
YAHAGI 2009/06/17(Wed)21:22:28 編集
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